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主語が「私」になる前にー星泉「羊は家族で食べ物で」を読んでみた

明治神宮で絵馬に興味をもったチベット人がいました。
その人が絵馬に願いごとを書きました。

生きとし生けるものがみな幸せでありますように。

星泉「羊は家族で食べ物で」『ゲンロン13』2022年 144P

私が今まで神社で願っていたことといえば、私とせいぜい家族の幸せくらいでした。人類、いや日本人の幸せですら願ったことがありません。

なぜそのチベット人は全生き物の幸せを願うことができたのか。そのヒントをもらえる文章に出会いました。

それはチベット語学者 星泉の「羊は家族で食べ物で」(『ゲンロン13』2022年10月)です。

「羊は家族で食べ物で」によると、チベット人に比べて私が小さい理由は以下のとおりですです。

①仏教問題

  1. 仏教の訓練を受けていない(絵馬の文章は実はお経の一部らしい)

  2. 輪廻転生を信じていない

②時間問題

  1. 家畜と接する時間が短いために家畜をよく観察していない

③言語問題

  1. 生き物を「セムチェン」=「心あるもの」と思っていない

④距離問題

  1. ヤクの乳を仔ヤクと人間でわけあったりしない

  2. 家族である家畜を自分で屠らない

  3. 人間を管理する側、家畜を管理される側と思っている

  4. 火葬する(死者の肉を他の生き物の食べ物にしない)

理由がわかったので、次にどうやって私を大きくするか考えます。

①仏教問題

仏教の教育を受ければ良さそうです。これについては必要とあらば対策を立てられそうなのでスルーします。

②時間問題

家畜は観察できませんが、うちには猫がいますので、猫を観察することで代替できるのではないかと思います。これについても対策を立てられそうなのでスルーします。

③言語問題

心が宿っている生き物を表す単語って日本語にありましたっけ?
ちょっと思いつきません。このような単語がないということは、チベット語に比べて日本語は、生き物に心が宿っていることを自明だとみなしていないということなので、日本語ネイティブである私は不利です。つまり日本語で考えている限り人間が小さくなりがちということです。

いや、そうじゃない。私は猫を飼っていますが、家族の一員だと思っています。心を持っていると思っています。そう思っているから猫に名前をつけて、話しかけたりしています。「セムチェン」=「心あるもの」の代替として固有名をつけているといえるのではないかと思います。

ということで、先の判断を変更します。言語問題は私が小さい理由にはならない。

④距離問題

1〜4いずれも私と家畜の距離が離れています。
1〜2については乳、肉の調達を業者にアウトソースして、業者の向こう側を想像しにくくなっています。
3〜4については人間と家畜に超えられない壁をつくっています。壁の分距離が離れています。チベットでは鳥葬というのがあって、人の死肉を禿鷲に食べさせる制度があったらしいです。

ここで思いました。これはもしや中動態問題では?
どういうことでしょうか。

能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる。

國分功一郎『中動態の世界』医学書院 2017年 88P

哲学者の國分は、私たちが慣れ親しんでいる能動態/受動態のセットの前には能動態/中動態のセットを運用していたとのこと。
その中動態で考えてみます。つまり私と家畜を主体と客体に分けるのではなく、生態系の中に私があると考えます。

私は家畜を食べたり、バクテリアに食べられたりします。生態系から私だけを抜き出してその幸せを願うより、生態系全体、いや全体は難しいとしても、せめて生態系のうち私の両隣りのプロセスの幸せを願う方が現実的なのではないかと思えてきます。

私から考える前に中動態=生態系から考える。

これは、難しくても、すぐにはじめられる対策だと思います。まずはここからスタートしてみたいと思います。

しかし本記事で手本としてきたチベットでも羊飼いが減り、屠畜のアウトソースや火葬が侵入してきているらしいです。
資本主義や分業が進むと私は小さくなるのかもしれません。

どうかチベット人のみなさんは、私とは違う道を歩みますように。

あっ、主語が私ではなくなった。


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