手でみるー鴻池朋子「みる誕生」を読んでみた
私はアートとは縁遠い生活を送ってきていまして、現代アートが何をしているのか、ほとんどわかっていません。
そんな私が一人の現代アーティストの文章と出会いました。
その文章は、定期購読している雑誌にたまたま掲載されていました。
こういう偶然があるから雑誌はやめられません。
出会ったのは鴻池朋子の「みる誕生」。
雑誌『ゲンロン13』(2022年10月)に掲載されていました。
読むと、アーティストが何をやろうとしているのか、ちょっとだけわかったような気がしました。
それは、純文学作家のやろうとしていることと似ている感じがしました。
今回はこの「感じ」を記事にしたいと思います。
動線をみる
いくらアートに縁遠い私でも美術館にはたぶん20回くらい行ってます。
特に知識もないのに行ったのは…アートがわかるとカッコいいんじゃないかと思っていた時期があったような気が…(恥
しかし、動線、一度も気にしたことありませんでした。
ポイントは現実とフィクションの境界をどうつくるか、
機能的に構造化されたものとは違うインフラをどうつくるか。
まず現実とフィクションの境界について考えます。
純文学作家はどう言っているか。
現実からフィクションへどのように誘うか。これについては今回召喚したアーティストも純文学作家も具体的な方法を明らかにしていません。しかし重要なのは間違いなさそうです。
そいえば落語のマクラも同じような目的だったような気が。(ちなみに落語の知識もほとんどありません。)
アートも純文学も人間の認知に関わっていると思うのですが、そうすると現実と虚構の境界は彼らの取り組みのど真ん中なのでしょう。
つづいて機能的に構造化されたものとは違うインフラについてです。
文学では機能的に構造化されたものといえばストーリーではないでしょうか。
保坂は例を挙げています。
野球は何が起こるかわからないというけれど、マウンド上でマグロをさばきはじめたりはしないといいます。
つまり予測の範囲内のことしか起きえない。
そしてどうやら文学の、小説の本質らしきものについて語ります。
つまり読者の今までの認知とはズレているものを提示すること。提示しつづけること。
どうもストーリーを重要視していないようなのです。
保坂の「面白い小説」とは認知のズレを表現しているもののこと。
これがアートにも言えるのだとすれば、私のような鑑賞者の心得は次のようなことになるでしょうか。
まず会場に入る瞬間に集中すること。現実との境界に感覚を研ぎ澄ますこと。そしてわからないこと、違和感のあることを感じること。たぶんそれがサイン。
そして、わからないことと、違和感のあることを感じることは、入る瞬間だけでなく、鑑賞全体について継続すること。
しかし、それだけでは不安です。結局、よくわからないという結果になりそうなきが気がします。
もう少しヒントがないか探します。
二重にみる
鴻池は展示会場に作品を設置しようとしている日に、奇妙な経験をしています。
現実を二重にみているようです。一つは常識的な見る、視る。もう一つは非常識的なミる?
では純文学者はどう言っているか。今度は別の小説家を引用します。
鴻池も高橋も対象のとらえかたがそっくりです。
目と耳以外の感覚をとぎすまさなければならない。鴻池は引用とは別の箇所で「美術館では視覚と聴覚をコントロールしやすい」(127P)とコメントしています。そして、鴻池も高橋も騒ぎすぎては逃げていくと同じような表現をしています。
視覚と聴覚はすぐに他の感覚を排除できるほど強力なのですね。
ではどうやって目と耳以外の感覚をとぎすますのか。暗闇にいれば何とかなるのでしょうか。
暗闇で徹底して見る、別の角度で考えてみる、あるいはまったくちがうように見えるまで待つ。
暗闇で見る?
どういうことでしょうか。
手でみる
そういえば20世紀を代表する哲学者の一人、ジャック・デリダも目と耳の間の空間について哲学したのでした。
目と耳以外の空間には、未開拓の豊穣な世界が広がっているのかもしれません。
鴻池は、手でみることによって豊穣な世界をつかまえようとしているようです。
手でみる、肌でみる、鼻で、口で、舌で、全身でみる。
なるほど。まずは鼻でみるのが無難でしょうか。とりあえず接触がないので。次に肌または手からみるのが良さそうです。でもちょっとだけ危険そうです。
そして舌。かなり勇気が必要な気が…。
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