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葛藤をとりもどせー東浩紀「訂正可能性の哲学2、あるいは新しい一般意志について」を読んでみた

陰謀論、フェイクニュース、ポピュリズムが蔓延したディストピア。
人間がつくってきた世界がこんなにも荒涼としていて、もはやどうすることもできないのなら、AIにもっとましな世界をつくってもらおう。ラッキーなことに、二十数年後には人間より機械の方が賢くなることだし。

現在大きな影響力をもつ論客(落合陽一、ユヴァル・ノア・ハラリ、成田悠輔)たちは、ざっくりいうと、このような考え方に基づき新しい制度、機械に判断を委ねる民主主義(「シンギュラリティ民主主義」)を提案しています。
シンギュラリティ民主主義では、機械が判断するための材料となるビッグデータをひたすらSNSや監視カメラに入力し、機械が下した判断を享受するのが人間の役目になります。

ちなみに成田悠輔の『22世紀の民主主義』については前回読んでみました。よろしければお読みください。

東浩紀は、シンギュラリティ民主主義は、人間の葛藤からの解放(機械に判断を委ねるから)を夢みているが、人間には葛藤のない世界は永遠にやってこないし、自分は人間でいたいのでシンギュラリティ民主主義に反対するという。

機械VS人間ならまだしも、人間推し人間VS機械推し人間、つまり人間どうしの戦い。悲惨です。

そういえば、最近、東とのトークイベントで浦沢直樹が言っていました。
(確か全人類に向けて)「争うな」と。(うろ覚え)
でも人間を賭けた戦いならケンジだって許してくれるはず。(たぶん)

今回は東の論文「訂正可能性の哲学2、あるいは新しい一般意志について(部分)」を読みました。批評誌『ゲンロン13』(編集長は東浩紀自身、2022年10月リリース)に掲載されています。
本論文はタイトルに2とあります。1は『ゲンロン12』で1年前にリリース済み、3については今後リリースされる単行本に掲載される予定とのこと。とはいえ2単独で読めるようになっています。

本記事では、本論文である2の超要約と無謀にも3の内容を推理してみたいと思います。その方が理解が深まるような気がしたからです。

まずは超要約してみます。

要約(1)一般意志と人間ルソー

謎だらけの一般意志によって統治する

ルソーといえば民主主義の基礎をつくった人です。
そのルソーは意志を二つに分けます。全体意志(個人の意志が集まった意志)と一般意志(公共の意志)に。その上で統治は一般意志に導かれるべきだといいます。ところが一般意志が謎なのです。
全体意志は個人の意志の集まりだから、全体意志にしたがうとポピュリズになってしまいます。それはルソーの時代にも自明なので別の意志が要請されたのだと東は推理します。

預言者のような指導者が必要

ちなみにルソーは議論、政党、代議制を否定しています。これ、けっこう衝撃的です。代わりに一般意志を把握できる預言者のような指導者(立法者と呼ばれる)が必要というようなことも述べています。

孤独なコミュ障・メンヘラのルソーは公共がわからない

ルソーはコミュ障、メンヘラな人物だというのです。超衝撃的です。と同時に笑えます。
そう言われても、ぽかんとする人がほとんどだと思われるので、本論文にはその証拠(ダメさ加減)がたくさん挙げられています。
もちろん天才っぷりも紹介されています。
ルソー自身は公共性とはほど遠く、実に孤独な人だった。だから議論すら否定したのかもしれません。
東はルソーが公共とはどのようなものかわかっていなかったのでないかと問題提起します。
念のため繰り返しますが、ルソーは民主主義の基礎をつくった人です。

一般意志を想定せざるを得ない事態になっていた

ルソーの『人間不平等起源論』には、ある土地に囲いをして、自分のものだと所有権を主張した時にそれを信じる単純な人々がいることを発見した人こそが、政治社会の創立者だったとの記述があるそうです。そこで所有権を移動させるための契約が必要になる。その概要は以下のとおり。

権利や財産をいったん共同体に与え、ただちに共同体から返してもらう。同じものが自分と共同体のあいだを往復しただけなので、各人はなにも失わない。にもかかわらず、社会という「各人がすべての人と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由なままでいられる形態」が現れる。1引く1はゼロではなく、社会が残るというのだ。

73P

そして以下の結論にいたります。

まずは社会のほうが存在し、つぎにその起源として遡行的に社会契約が仮構され、結果として一般意志があたかも最初から潜在していたものであるかのように見出される。

70P

一般意志があったから社会ができたのではなく、社会ができてしまった後、本当にそんなものがあったかどうかよくわからないが、「一般意志」のようなものを想定するしかなかった、ということでしょうか。

一般意志とは物(自然)である

ルソーは一般意志とは事物だと考えています。天気や土地の高低や水の流れのような自然の制約のようなイメージで捉えていたようです。

一般意志には条件節が取り憑いている

孤独のままで問題なかったはずのに、所有権の移動によって「もしいま不平等で不自由な社会が成立しているのだとすれば」(条件節)一般意志という物も成立することになるとルソーは考えたのではないか。人間が人間を制約するのは悪だから、人間ではないものを想定せざるをえなかったのではないかと東は考えます。

要約(2)一般意志とシンギュラリティ民主主義

超要約は続きます。

謎な一般意志を現代から再検討します。
ルソーの時代にはなかった概念を召喚します。

無意識

一般意志の様々な性質が無意識にあてはまると東は言います。無意識は物理的な制約条件にたとえられることもありますし。

統計

統計も一般意志の様々な性質にあてはまると言います。
アドルフ・ケトレという統計学者が、社会現象にも物理現象と同じ統計的な法則性が現れることを発見したとのこと。統計もモノなのですね。
個人がバラバラに起こしている犯罪の件数を統計によって予測できることなど物理現象に似ています。

ここまでくると一般意志からシンギュラリティ民主主義をほぼ自動的に導くことができると東はいいます。

シンギュラリティ民主主義

成田悠輔はシンギュラリティ民主主義(シンギュラリティ民主主義は東の造語です。成田は同じ意味のことを無意識民主主義と名づけています)を以下のように説明しています。

インターネットや監視カメラが捉える日常の中での言葉や表情や体反応、安眠度合いや心拍数や脇汗量…の分泌量…人々の意識と無意識の欲望・意思を掴むあらゆるデータ源から、様々な政策論点やイシューに対する人の意見が溢れ出している。…
集めたデータから各論点・イシューについての意思決定を導き出すのは、自動化・機械化された意思決定アルゴリズムである。

『22世紀の民主主義』 SBクリエイティブ 2022年 161-162P

問題

東は、シンギュラリティ民主主義の問題を指摘します。現代は法規制などによって個人を丸裸にすることは困難なので、似た人たちのデータを使って個人の傾向を把握していますが、その恐怖を指摘します。

たとえば戦地に行き敵と戦えと命じる。あなたはそれにしたがわなければならない。なぜならば、ビッグデータ分析によれば、じつは「あなたに似た人々」のほとんどは、戦地に行き敵と戦うことを望んでいるからだ。

99P

似ているだけで自分と関係ない人の傾向によって、自分の傾向が決めつけられてしまう。だからこの傾向を自分で変えることができません。
つまり自分の傾向なのに訂正不可能な状況です。
さらに、ビッグデータ分析にしたがって行動すると主体化が起こらないとも言います。反省しないからだと。悪いのは他人のデータなので当然かもしれません。

もう一つ、やっかいな問題があります。
Googleのビジネスモデルの中での私たちは家畜に近く、主体化が起きないと指摘されています。私たちはGoogleから環境(飼育場)を与えられて羊のように原材料(入力データ)を提供する。Googleが加工して企業にマーケティングデータを提供する。そして企業がお金を払う。私たちは売買には関与できません。原材料を提供するのみ。

つまりシンギュラリティ民主主義では主体も葛藤も生じない
致命的な欠陥があるというのが東の結論です。

以上が超要約です。
ここから、まだ書かれていないこの続きを考えます。ここからが本番です。
長い!と思ったあなた。すみません。私もそう思います。

別のしかたの民主主義へ

条件

別のしかたの民主主義を考えるために、今までで出てきた条件をまとめます。その前に、東は一つ目の論文「訂正可能性の哲学」で、本論文の内容を予告していました。自身の『観光客の哲学』の第六章「不気味なもの」と他の章との関連を強め、観光客の哲学と現代のITとを関連づける、といっていますが、本論文にはこれについて検討はなかったと思います。これも本記事の検討対象に含めます。
条件については、基本的には超要約から抽出します。

1.一般意志を把握できる預言者のような指導者が必要
2.一般意志を想定せざるを得ない
3.一般意志とは物(自然)である
4.一般意志には条件節が取り憑いている
5.主体と葛藤が生じるようにする
6.主体が自身のデータを訂正可能にする
7.『観光客の哲学』の第六章「不気味なもの」と他の章との関連を強め、観光客の哲学と現代のITとを関連づける

これらの条件をどうやってクリアするか考えていきます。

まず東の目的であった、人間を維持することを考えます。そしてそれは葛藤から逃れられなことも意味するはずです。
人間には主体がありますが、動物にはない。ということで主体の検討からはじめたいと思います。

二つの主体

東は『存在論的、郵便的』で主体のメカニズムには2パターン(3パターンという説も)あることを示します。一つは否定神学的主体、もう一つは郵便的主体です。
前者については千葉雅也が『現代思想入門』で簡潔に説明しているので、それを引用します。

否定神学とは、「神々は何々である」と積極的に特徴づけるのではなく、神を「神は何々ではないし、何々でもなく…」と、決して捉えられない絶対的なものとして、無限に遠いものとして否定的に定義するような神学です。…我々は否定神学的なXを追い続けては失敗することを繰り返して生きているわけです。…
現象と呼んでいるのは想像界と象徴界の組み合わせです。人間はイメージ(感性)と言語(悟性)によって世界を現象として捉えている。しかしその向こう側に現実界(物自体)があり、それにはアクセスできない。にもかかわらず、それにアクセスしようと思っては失敗し続ける。

『現代思想入門』 講談社 169P 

続いて『存在論的、郵便的』をみてみます。
これはデリダ論です。下記引用箇所では、デリダは否定神学的主体の限界を指摘しています。

デリダが初期からこの広義の「否定神学」への接近を警戒していた理由は、分かりやすい。…フッサールとソシュールの体系に宿る位階秩序を見事に自己矛盾に追い込み、「体系的であること」の非一貫性と不完全性とを導いたそこでの作業は、裏返せば「体系的には決して語ることができないものがある」という主張にかぎりなく近くなるからだ。ゲーデル的脱構築の残余物を神学化すること、デリダはこの誘惑に抵抗せねばならない。

『存在論的、郵便的』 新潮社 1998年 95P

この限界を超える主体を東は究明します。そして郵便的主体にたどり着きます。ではそのメカニズムはどうなっているか。

知覚された情報は主体に二重に書き込まれます。一つは言語+文字つまり象徴界に、もう一つはイメージつまり想像界に。いったん知覚したら次にまた別の知覚をするために、あるリズムでこの二重に書き込まれた情報は初期化されます。ただ、想像界にイメージの痕跡は保存されたままです。それが記憶です。

象徴界に書き込まれた情報は、意識に届きますが、想像界の情報は一部のみ意識に届きます。一部は抑圧され届きません。抑圧された情報については失われるわけではなく、無意識=郵便空間の通路を、いろいろな速度で流れます。いつか意識に届く情報もあれば、遅すぎて死ぬまで届かない情報もあります。後から情報が届くということは、それ以前の情報とは内容が異なります。だからこそ後から届いたことに気づくことができます。

否定神学的主体では郵便空間の通路と速度は想定されません。知覚に届いていることだけで判断します。したがって後から届いた情報は、単に矛盾した情報として知覚されます。矛盾した情報が同時に存在することになるので、情報にアクセスしようと思っては失敗し続けます。

この、後から届くこと、あるいは失敗し続けることを矛盾や葛藤と言います。否定神学的主体は、主体の方に限界があるために失敗し続けると考えます。いっぽう郵便的主体の方は、主体に限界があるのではなく、情報が流通する速度に違いがあるだけだと考えます。これで否定神学的主体の限界を突破できます。東は郵便的主体の知覚がどういうものか例を挙げています。

フロイトは友人について考えていたちょうどそのとき、その本人から声をかけられるという体験をしました。これは以下のように分析されます。まず友人が遠く離れている時点で、彼の目はすでに友人の姿を認めていた。しかしその友人が不愉快な友人だったために抑圧され、意識にのぼりませんでした。その抑圧の他方で同じ情報を受け取った無意識は独自に連想の糸をたぐり、友人のことを心にのぼらせます。つまりひとつの情報が分割され、別々の回路で処理されます。その間フロイトと友人の距離が近づき、結果として、彼は意識的には、ちょうど友人について考えていたとき、その当人から声をかけられることになります。

同上 188Pを筆者が要約

後から情報を受け取ると、それまでの情報を訂正して上書きする必要がでてきます。このことを東は訂正可能性といいます。郵便的主体は、自らのメカニズムによって生じる訂正可能性に対応できなければならない。
だとするとあらかじめ言葉も訂正可能なようにつくっておかなければなりません。具体的には以下のようなことです。

「アリストテレスはアレクサンダー大王を教えなかったかもしれない」と私たちは矛盾なくいうことができます。これは「アリストテレス」の意味をあらかじめ訂正可能なように言葉がつくられているためです。仮に対応していない場合、「アレクサンダー大王を教えたアリストテレスはアレクサンダー大王を教えなかったかもしれない」となり矛盾し成立しません。つまり訂正できないということです。
言葉にはあらかじめ訂正可能性が含まれています

ここまでをまとめます。
郵便的主体は否定神学的主体の限界を超えています。別のしかたの民主主義は郵便的主体の民主主義であることが望ましいということになると思います。

次に「7.『観光客の哲学』の第六章「不気味なもの」と他の章との関連を強め、観光客の哲学と現代のITとを関連づける」について検討します。

不気味なもの

「不気味なもの」とは何か。東の『観光客の哲学』を参照します。

フロイトは…「不気味さ」とは、個人あるいは集団が原始的段階でいちど経験し、その後抑圧されたものが回帰してきたときに生まれる感覚だと定義している。

『ゲンロン0 観光客の哲学』 ゲンロン 2017年 240P

抑圧されたものの回帰。これはまさに郵便的主体の知覚を説明しているのだと思います。これによって訂正可能性にも対応できるのでした。
そして訂正可能性をもつ主体によって観光客の哲学ともより連携できます。

観光客は家族のように連帯する。そして家族は訂正可能性で生まれる。いいかえれば誤配で生まれる。

東浩紀 「訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について」『ゲンロン12』 2021年 80P

「不気味なもの」をもう少し考えてみます。

主体はどのようにして同一化の二重性を確保するのか、という問いについて考えることになったのである。それは、いわば、不気味なものについての考察の、別のかたちでの表現だ。

『ゲンロン0 観光客の哲学』 ゲンロン 2017年 252P

つまり「不気味なもの」とは郵便的主体の二重性と同じことだといいます。
象徴界と想像界の二重性によって訂正可能性が生まれます。抑圧されていた訂正情報が後から回帰することを不気味なものといいます。

では「不気味なもの」とは具体的にはどんなものか。
東はPCのインターフェイスがいい例だといいます。

【コンピュータの】インターフェイスには、イメージもシンボル(文字)も、あるいはさらにイメージや文字のさらに深層にあるコードさえ、すべて等価に表示することができる。

『ゲンロン0 観光客の哲学』 ゲンロン 2017年 256P 【 】は筆者

コードはいわば暗号で、確かデリダは無意識をクリプト(暗号)と呼んでいました。PCのインターフェイスにはイメージ(想像界)も文字(象徴界)も暗号(機械が生成する無意識)も表示されます。まさに「不気味なもの」です。

そして、石田英敬は東との共著『新記号論』の中で、フロイトの言葉を紹介します。それは、
人間は(PCなど)補助具をつけた神である、しかしその補助具は人間にとって必ずしもいい効果を持つとはかぎらない
というものでした。
だから、補助具の利用のしかたと効果を考える主体が必要になります。

一般意志

つづいて一般意志の実装について検討します。
成田は一般意志(ビッグデータとアルゴリズム)にあらゆる判断を任せることを提案しました。それに対し東は主体性を維持しようと抵抗します。
そうであれば、一般意志(ビッグデータとアルゴリズム)を補助具(PC)のインターフェイスに出力するようにして、郵便的主体がそれを参照して判断するようにすれば解決するのではないでしょうか。

だいぶクリアできてきたのではないかと思います。(たぶん)
まだ検討できていないのは、「一般意志を把握できる預言者のような指導者が必要」「一般意志には条件節が取り憑いている」この二点です。これを検討します。

前者について。
人間は補助具をつけた神でした。その神に一般意志を示すのはビッグデータとアルゴリズムでした。ビッグデータとアルゴリズムを預言者といえないでしょうか。預言者とは神と人とを仲介するものです。神としての補助具をつけた人間と単なる人間を仲介する。

後者について。
一般意志はPCのインターフェイスに表示されます。インターフェイスにはイメージ(想像界)も文字(象徴界)も暗号(機械が生成する無意識)も表示されるのでした。これを人間(郵便的主体)が知覚します。そして訂正可能性が生じます。ということは、知覚された一般意志を後から訂正できるよう、最初の知覚の時点で一般意志には訂正可能性(訂正されるかもしれないという条件節)が取り憑いていることになります。
人間+一般意志+補助具でクリアできると思います。

議論は大詰めなのですが、まだピースが欠けていることに気づきました。
一つの主体だけでは、規則をつくれないのでした。そして社会ができてしまっていたために後から一般意志を仮構したのでした。この問題を検討します。

ぼくたちは、なにかの規則にしたがったり、なにかを意味したりすることがひとりでも可能だと信じている。けれどもほんとうはそんなことはできない。規則や意味は、他者による判断なしには成立しない。規則や意味なるものは、じつは共同体を維持する道具としてのみ存在する。

「訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について」『ゲンロン12』 2021年 62P

規則をつくるには単独の郵便的主体だけでは足りませんでした。他者による承認が必要でした。

そして一般意志とは社会の成立を根拠づけるために仮構されたのでした。さらに訂正可能性も取り憑いています。したがって一般意志とは、社会を根拠づけるもので、それは各時代で訂正していけばよいということになるのではないでしょうか。目的はあくまでも社会の維持。そのために私たちは私たちの一般意志を仮構すれば良い。「一般意志」とは社会を維持するための名称であって、内容は時代とともに変遷する。

これで別のしかたの民主主義のピースは揃ったのではないかと思います。(たぶん)

まとめ

まとめます。長い道のりでした。ここまでお読みくださった方、本当にありがとうございます。

別のしたかの民主主義の骨子は以下のとおり。
一般意志(ビッグデータとアルゴリズム)を補助具(PC)のインターフェイスに出力します。それを人間(郵便的主体)がみて決断します。そしてその決断について他者からの承認を得るようにします。その決断内容は後から訂正されることがあります。

なんだか、きわめて普通のことしか言ってないような気が…

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