助けを求める事は恥ですか?
ある時、師匠からこんな言葉をもらった。
「助けて、と言ってください」
私、齢40手前。
そんな事、親にも言われた事なかったから、度肝を抜かれた。
私は『人間理解』を提唱する師匠に出会い、仲間とと共に学んできた。
人間理解や、師匠との話題はこちらの記事に書いている。
助けてと言ってください
「助けを求めてください。
皆さん、助けてって言うの、とても苦手ですよね。
助けてって言うと、何かに降参したような気持ちになるかもしれません。
弱さを認める事になるかもしれません。
でも、その一歩を踏み出す事が皆さんの人生を変えます。
皆さんは、自分を変えたい、人生を変えたい、そう思って私の所で学んでいますよね。
私は、その皆さんの思いに全力で応えるつもりです。
だから、本当に助けが必要な人は、助けて、と言ってください。」
私は、大人になって、社会人になって、「助けてと言ってください」と言われた事なんて、ただの一度もなかった。
大人なんだから、社会人なんだから。
自分で解決する事が当然だと思っていた。
質問や相談は出来ても、「助けて」なんて、全面降伏して、相手に全体重かける言葉なんて、口が裂けても言ってはいけないと思っていた。
だって、私はもう大人で社会人で。
「助けて」と言われた相手に、どれほどの負担がかかるのか、それが容易に想像が出来るようになっていた。
そして、助けてと言っても、自分が望むようには助けが得られない、そんな社会の構造にも、とうに気づいていた。
仲間の多くも同じように考えていたと思う。
だから皆、その師匠の言葉を聞いて、雷が打たれたような表情をしていた。
師匠からのあり得ない提案に、その場は時が止まっていた。
それでも皆、本気で自分を変えたかった。
人生を変えたかった。
皆の「ヘルプミー」がポツポツと聞かれるようになった。
囁くような「ヘルプミー」があちこちで聞かれるようになった。
それからしばらく経って、師匠が言った。
「皆さん、助けてって言ってくださいって、そこまで言っても助けを求めるのに苦戦してますよね。
助けてって言ってください、それくらい強い表現でないと、皆さんの行動を変える事はできないと思っていました。」
全くその通りである。
ポツポツと仲間の「ヘルプミー」は聞かれたが、雪崩のように「ヘルプミー」で場が埋め尽くされるような事は決してなかった。
師匠が皆の「ヘルプミー」で押し潰れる事はなかった。
助けてと言ってください、と言われてなお、私たちは、助けを求めるのに相変わらず躊躇していた。
だからそれからも、時折思い出したように師匠は「助けてって言ってくださいね」と私たちに向けて繰り返した。
何度も何度も繰り返した。
助けてと言えずに40年
障害者の家族として生きていると、何度も何度も”助けて”と言いたくなる日がやってくる。
障害者の兄と共に生きて40年弱。
そんな日は何度もあった。
障害者の兄には様々な事件が起こる。
友達にいじめられている、助けて!
先生から嫌われて疎外されてる、助けて!
カツアゲされてる、助けて!
成績が悪すぎて高校に行けない、助けて!
仕事ができない、助けて!
変な契約して借金してきた、助けて!
何度も何度も助けて、と言いたかった。
でも、記憶にある限り、私はただの一度も”助けて”とは言わなかった。
どうしようもない事なのだと、物分かりのいい人間でいる方が楽だったから、一度も言わなかった。
実は、助けてって言わなくても、それとなく助けを求めた事は何度もあった。
けれども残念ながら、助けを求めた相手は分かったような顔はしても、私の期待に応える事はなかった。
それがどうしようもない事だと段々と理解していったし、期待に応えない目の前の相手になんの落ち度もない事も理解できるようになった。
でも、そんな自分を思い出してちょっと悲しくなった。
物分かりばかりよくなって、助けて!と言えなかった自分がとても寂しく思えた。
私にとっては40歳手前で出会った師匠が初めて〝助けて〟を言わせてくれた相手になった。
でも、もしかしたら、助けてって自分から言う勇気があれば、事態は変わっていたかもしれない。
物分かりの良いフリをするのを辞めて、全身全霊で助けてって言えば、何か変わっていたのかもしれない。
自分から求めて期待に応えてもらえなかった経験ばかり思い出して悲しみにくれるより、与えられた日本人らしい相手の負担にならない思いやりや言葉を丁寧に一つずつ拾い上げる意識があれば、何か変わったのかもしれない。
師匠が助けてと言ってもいいと言ってくれたのは、そうやって、私にはいくらでも助けてもらえる環境が備わっているという事に目を向けさせるためだったのだ。
私が思うようには助けてもらえなかった、と先に述べたが、私自身が、奥ゆかしく差し伸べられた助けに目を向けてこなかっただけなのだ。
そして、助けて、と言う勇気を発揮しなかっただけなのだ。
師匠は、助けてもらえる環境は目の前にある事、そして、助けてと言える勇気が私にある事を、助けてと言ってください、という言葉に込めたのだ。
助けてと言う事は恥なのか?
助けてって言ってもいいよ、なんて言ってくれる人は多分、この先も師匠の他には現れないだろう。
それでも、私はもう悲しくないし、寂しくない。
だって私には、助けてもらえる環境が目の前にあるし、助けてって言う勇気がある。
障害者の家族は往々にして支援を必要とする事が多い。
私もつい先日、自治体の福祉課に支援要請したところだ。
けれども、障害者の家族はこれまた私も含めて、ついつい自分達で頑張ってしまいやすい。
親子二人三脚でここまで頑張ってきました!
家族で支え合って生きています!
などというストーリーがマスメディアでもてはやされたりするからか。
どうも誰かに助けを求める事に抵抗が強い。
助けを求める事は、”恥”だとする文化がどうも強い。
自分たちで頑張ってる人こそ”偉い”とする文化がどうも強い。
だが、私は思う。
助けを求める事は勇気なのだ。
助けて!と言える事は勇気なのだ。
至らない自分をさらけ出す勇気。
無力さをさらけ出す勇気。
誰かに任せる勇気。
助けてと言える人は、とても勇敢な人なのだ。
助けてと言う事は決して恥ではない。
助けてと言える人は、自分の至らなさを認められる、とても勇敢な人なのだ。
少なくとも、私は助けを求められる人にそう敬意を払いたい。
色んな人に助けを求める自分を誇りに思いたい。
そして、障害者の家族には、ぜひあちこちに助けを求めて欲しい。
福祉だけでなく、医療、教育、心理など、様々な分野から助けが得られる。
現状では、個人情報保護があり、そうした各分野が十分な連携を取ることが難しいので、障害者の家族自身が働きかけて、助けを求めるのが一番スムーズに感じている。
面倒な事もある。
思うような助けが得られない事もある。
同時に、思っていたより大きな助けが得られる事もある。
私自身試行錯誤しながらだが、障害者の家族が、助けて、と声を出す事は大切なのだと師匠の言葉と共に日々感じている。
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