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「特別」の理由を言葉にしたい

写真家・幡野広志さんの書籍『ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。』(PHP研究所)をnoteの記事で知り、即購読。
これは是非コノビーの記事にさせていただきたい、と動き出した。

すでにかなり売れている話題作であるし、今までやり取りをさせていただいたことのない出版社でもあったので、なかなか不安はあったものの、先方のご厚意で、なんと幡野さんご本人に未公開のお写真4枚(奥様撮影)までご提供いただき、記事の制作が実現した。

私はたいへん感動し、普段はGoogleドライブの機能をつかって文字起こしをするのだが、今回は1字ずつ、すべて自分のキーボードで入稿してみた。
(校正に付き合ってくれた編集部員に感謝。)

記事はこちら1本目:息子に知ってほしいのは、相手に気持ちを伝える方法。
2本目:「いい写真ってなんだろう。」答えは息子が教えてくれた。

あえて非効率な方法を選ぶことになんの意味が?と問われると、気持ちのいい回答はできないかもしれないが、「確かめるため」だったように思う。

ご存じの方も多いと思うが、筆者の幡野さんは、末期ガンで余命宣告を受けてらっしゃることを公表している。息子さんは、まだ2歳。

とてもショッキングで、胸がずんっと苦しくなる、大変なご状況の中で、本書をご出版されている。

しかし、そのご状況だけが「特別」なのだろうか。
本書に込められたドラマは、もっとちがうところにも、あるのではないか。

自分なりの理由を確かめるように味わう時間が、きっと私には、必要だったのだ。

「売れてる本」をメディアで扱うこと

繰り返しになるが、この本は売れている。重版も5刷目とのことだ。
発売当初は、アマゾンでもずっと品薄状態だった。

そんなホットな話題作をwebの記事にする、という行為は、「安易にPV(アクセス数)を稼ぎにきたな」や「流行に乗っかっただけ」という見方をされがちだ。

断っておくと、私はwebメディアがPVにこだわることに肯定的である。
自身も編集とマーケの仕事をしているし、どんなにいい記事を作っても、読まれず埋もれてしまっては意味がない。
「たくさんの人に届けることができる」はこの業界での一定正義なのだ。

現代は「売れてるモノが売れる」時代だ。
個性を追求するよりも、その他大勢からはみ出ないことを重視する人が多い。

なので普段は、いわゆる"売れ選"やトレンドを取り上げることに、なんら葛藤はない。
多くの人が、気になる情報、欲しい情報を記事にする。それは媒体にも読者にも、わかりやすく利を連れてくる。

しかし本書は、好調な売れ行きに負けないくらい、すこぶる内容がいい。
いや、もちろん、内容がいいから売れているわけだが。

滅裂な極端をいえば、私は本書がまったく売れずに在庫を持て余しているような状態にあっても、やはり記事にしたと思う。
実際に、今までもそうやって掘り起こして記事にさせてもらった書籍はある。

なので、単に「売れていることだけが魅力な本」ではない、ということを、ここに宣言したい。

では本書の魅力とはなんだろうか。
あくまで個人的な意見なのだが、それは「想定読者」のゆるぎなさにあると思っている。

「ドラマ」を誤解されないために

コノビーで様々な記事を作り、その何倍もの記事をマーケティングしているが、想定読者のいない記事というのは、絶対に当たらない。

どんなにギャグが冴えていても、キャッチーなワードが入っていても、絵がうまくても、届けたい「誰か」を具体的に想定し、その人にグッとくる切り口で、正直に描かれた作品でないと、マスの心に届かない。

本書の想定読者は「未来の息子さん」である。
タイトルからもそりゃそうでしょ、となる、この書籍の根源企画であるが、これをきちんと実現するのは、案外に難しい。

幡野さんのご状況であれば、「余命宣告を受けた父親が、息子に伝えたいこと」を"テイ"として、実際には子育てママのマス層をターゲットにし、そちらに寄せた書き方もできたはずだ。
俗にいうと「ママウケ」を狙った商戦というやつである。

しかし、本書を読んでいただければわかるが、字面だけみたら誤解をされかねない、少し強めの表現や、一般論からするとやや個性がたつ提案がいくつかある。

これは、家庭内の教育として使用される分にはまったく問題ないが、メディアを経てマスに語りかける文章としては、もう少しマイルドな言い方と、大衆に理解しやすい方法論に編集されるのが常である。

だがあえて、幡野さんのナマの言葉のままで掲載する。
そこには、この本は不特定多数のマスに向けられて作られたのではなく、本当に、まだ字の読めない息子さんのために書いたのだ、という強いポリシーが存在している。

幡野さんは本文の多くの章でご自身のご病気に関して触れておられるし、本書執筆の動機は、まちがいなく、「大人になるまでそばにいられないかもしれない息子に、言葉を残す」という一点にあったのだと思う。

ただ、その遺言的要素を抜き取ってしまったとしても、本書の面白さはちっとも陰らない。

若くして病気になってしまったこと、から始まった本書は、はじまりの物語からすでに独立し、ある父親のまっすぐな人生観と愛がつまった、唯一無二の作品になっているのだ。

これこそが、本書のもつ「ドラマ」の本質だと、私は確信している。

特別の理由はなに?

本書の外側の情報として、幡野さんご一家のご状況や、今バンバンに売れている話題作、という2点が目につきやすい。

どちらも軽視する必要はない事実なのだけれど、私にとって、この書籍が「特別」で、そこから作る記事も、格別に「特別」になった理由は、まだ2歳の息子くんに対して、こびいったり、よくわからない厳しさをみせたりせずに、ご本人が大事だと信じていることを、淡々と論じている点なのだ。

私は今の時点で、ありがたいことに余命を意識する瞬間はあまりないのだが、実際には、事故で明日死ぬかもしれない。
その可能性は誰にでもあるし、幼い子を持つ親が、誰1人死なずに済む1日ってあるのかな、という疑問もある。

けれど私を含む多くの親は、そのことをすっかり忘れてしまい、周囲の目や世間の反応、実態のない「なんかそうゆうものらしい」にばかり気を遣い、目の前の子どもに向けて話していない瞬間が、案外たくさんあるんじゃないか。

電車での笑い声を過剰にいさめる。
本当は、子どもはよく笑ったほうがいいと思っているのに、「誰か」の視線に配慮して。

食べ物や遊びの好き嫌いに寛大になれない。
本当は、多少の好みは個性だと思っているのに、「誰か」にワガママに育てている、教育が悪いと叱責されるのを恐れて。

子どもの方を向いて育児をしているつもりでも、一枚めくって考えてみると、子どもを叱る理由は、「世間というマス」に意識が向くことによって生まれていることがある。

このとき、親が守っているのは、子どもの未来ではなく、親自身の外的評価と、「ちゃんとした親らしく振舞っている」という空虚な自己肯定感だ。

むろん、人間は社会的動物であるから、その中で生きていく力を身に着けさせることは重要なのだが、子どもにダイレクトに残したいもの、教えたいものだけを意識的に抽出してみると、毎日の小言は、実は子どもではない何かのために発信されていたと気付く。

時間がたくさんあると思っているからこそ、そのイビツな在り方に、想いをはせる時間を取らない。

幡野さんの言葉たちは、息子さんと、息子さんが歩んでいく未来のためにある。みえないマスのご機嫌を伺うような記述がない。
だから本書は「特別な」育児書なのだ。

本を実際に購入するのは「親」であるのに、「その他大勢の親」に向けたメッセージは、一貫して収録されていない。
たけど、正直で、想定読者にきちんと向かい合っているから、本書は多くの人に絶賛されている。

本書を読んだ人の中には、もしかして、違和感を感じる箇所や、ここは考えが違うな、と頭をひねる部分を見つける人がいるかもしれない。
だが、それでいいのだ。
そもそもよそのお宅の教育方針に、完全に同意できることなどない。

なのに、書籍になった途端、ん?と感じるようになるのは、私たちは「マスの機嫌を気にする親」でありながら、「機嫌を取られることに慣れ切ったマスそのもの」でもあるからだ。

そんな、世間の視線を疎ましく思いながらも、その視線を他の親につきつける存在でもある自分に、私は本書を通して、正面から睨まれたような気持になった。

本書にこめられた幡野さんの真摯さは、いまのご状況により変わったものなのか、それとも元々のスタンスなのか、お会いしたことのない私にはわからないが、この大事な大事な書籍に関わる機会をいただけたことに、心から感謝が尽きない。

願わくば、素晴らしい本書が、その役割を担うことなく、幡野さんご本人のお言葉で、息子くんに伝えたいあれこれを、余すことなく語り継げる日が、なんでもなく、やってきますように。どうか、どうか。

記:瀧波 和賀(コノビー編集部)

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