熱

「お熱コール」はチクチクがいっぱい

今日は業務が詰まってる。
出社してすぐ、1日のタスクをリストアップして、優先順位をつける。

やばい、ぜんぶ大事だ、落とせない。
ということに気付いて、とにかくフルギアで作業をはじめる。

月末で、まったなし。
人員いなくて、余裕なし。

そんなときに限って…

ブーブーブー
規則正しい携帯のバイブ音。
そして表示される、我が子の所属園。

あぁっーーーーっっ!

嘘でしょ、今日に限って、無理無理、まだ午前だよ、うわー…。

正直すぎる感情たちが、血液よりもはやいピッチで全身を駆け巡る。

通話ボタンを押して、保育士さんの早口な声を聴くころには、どんな様子だろうか、深刻な状態じゃないだろうか、と子供の健康が気にかかるものの、無常に光ったスマホの着信画面をみつけたとき、まっさきに浮かぶのは「困ったな」だ。

そして微熱が出ているという子供を何時に迎えに行くのか段取りをつけ、通話を終えると、「いま一瞬、子供よりも仕事を大事に考えちゃった…」と小さいくせにしっかり苦い、ジャリっとした何かを、奥歯で潰したような気持になる。

はぁー…。

子供がお熱を出したというのに。
親がいなくて不安がっているかもしれないのに。
体調不良のサインに気づかず、園に送り出してしまったのかな。

チク。

昨日の夜、そういえば少し元気がなかったような気がする。
それとも半そでで寝かせたのがいけなかった?
いや、それ以前に休日の予定を詰めすぎちゃったのかも。
そもそも、低月齢で預けたりしたせいなのかな…。

「子供は急に熱を出すし、原因を考えたってわからないこともある。預けることは可哀相じゃないし、親が責任を感じることないよ。」

「誰か」になら、自信をもってそう言えるのに。
その言葉は嘘じゃなくて本心で、きっとかなり正しいのに。

いざ自分の元に「お熱コール」がやってくると、原因も考えてしまうし、頭から仕事を追い払えずに、100%で心配できない自分にも、なんだかウンザリしてしまう。

もしかして…親失格?

はじめての子供の通園1年目は、それくらい感傷的な想いも沸くだろう。
3歳児神話を支持している誰かに言われた、トゲのある言葉たちが脳内再生されたりもする。

チクチク…。

そして、現実問題として目の前に横たわる業務を無視することもできず、誰かに頼むなり、諦めるなり、明日に回すなり…明日出勤できる保証もないのだけれど…。
とにかく整理してから迎えにいかなきゃ。

配偶者に相談する余地がない環境の場合、この一連の葛藤を整理しきれず、職場の人間に頭を下げながら、タメ息連続のやりきれなさで帰路につく。

子供と仕事。優先順位は…そりゃそうだけど。

「お熱コール」で仕事が中断することは、離れた場所で苦しんでいる子供への罪悪感だけでなく、職場への申し訳なさと、なんともいえない消化不良をひきおこす。

母になる前は、残業前提のマッチョなタスクもモリモリこなして、帰宅後や休日にも、仕事に関係する勉強をし、自分の成長を加速させることができた。

同僚よりも活躍するための努力や、頼りにされるための工夫は、「やる」か「やらない」かでしかなかった。

それが、親になった途端、子供のお熱コールひとつで、強制的に業務終了。先の予定も立ちにくい。
やる、やらない、だった2択は「できない」の一択になった。

職場によっては、上司や同僚に、ため息をつかれたり、なんとなく迷惑そうな、気まずい空気を醸し出されるかもしれない。

病気になったのは「わたし」じゃないのに。
大人の体調管理はある程度、自己責任な側面もあるけれど、子供が熱を出すのは不可抗力だ。そうゆうものだ。

だけど「わたし」の働き方が制限されてしまう。
なんだか、自分自身の能力そのものが減ってしまったかのようだ。
少なくとも、周囲の評価的には。

親になって子供をもって、今まで知らなかった世界を知れた。
初めての経験や、感じたことのない感情を味わった。
これは「プラス」じゃなかったのかな、社会人として働くには「マイナス」な出来事だったのかな。

子供が生まれて嬉しい。
ずっと幸せで、感謝してきたのに、働きだしてみたら、少し重荷にも感じるなんて…。
あぁ、間違いなく、大好きなのに…。

チクチク、チクリ…。

やり場のない「やれない」気持ちは、むくむくと大きくなり、働く人である自己と、親である自己のスキマで、そのトゲのある全身を、不遠慮にこすりつけてくるのだった。

誰も悪くない。はずなのに。

物理的に体が職場に近いうちは、やはり仕事のモヤモヤを感じやすいが、園の門をくぐる頃には、やっと着いた…と安堵し、子供の容態で頭がいっぱいになる。

ツラくないだろうか。
苦しくないだろうか。
ご飯は食べられたのかな?
私がいなくて、泣いてないだろうか…。

職場で謝り倒してからの、この気持ちのふり幅も、地味にシンドイ。

急いで教室にいき、いつもより5倍真剣に保育士さんのお知らせを聞く。
具合が悪ければ、自宅療養か受診かを相談し、流行っている感染症の情報をもらう。
きちんと記録された子供の様子がありがたい。
相談できる相手がいるって、なんて心強いのだろう。

だいたいはこのまま看病モードに突入するのだが、お迎えにいくとすっかり熱が下がっていた…という経験のある方もいるだろう。

子供容体は変わりやすい。
熱を出すのが突然なら、いきなりスッと下がったりもする。
そもそも未満児だと、たいがいの園でお迎えラインとされる37度5分は、大泣きしたり、長そでが暑かったり、走り回って興奮すると、案外すぐに突破してしまう。

そんな時の保育士さんは、とても言いづらそうな思い詰めた顔で、歯切れ悪く言葉を重ねる。

「あの…先ほどまではお熱があったのですが…今は下がってます…。すみません…あの、どうされますか?」

チクッ…。

どうして、謝るのだろう。

保育士さんのお仕事

保育士さんは大変な仕事だ。
自分の子供ひとり見守ることもハードミッションなのに、個性の異なる子供を集団で相手にし、遊び、学習、食事を与えるだけでなく、健康と安全をその身ひとつで守っている。

そんな大変な業務をしているからだろうか、保育士さんの「社会人としての親」に寄り添ってくださる姿勢に、私はチクッとした痛みを感じる。

お熱コールで迎えにいってみると、子供の熱が下がっていた。
この現象に、どうか謝らないでほしいのだ。

発熱する何かしらの要因があった子が、状態を悪化させずに過ごせたのは、他ならぬ、保育士さんの功績だ。
適切に対応してくれたおかげで、そばにいてくれたおかげで、親は病気の子供ではなく、元気な子供を連れて帰ることができる。
嬉しくないわけはないだろう。

もしかして、過去に「この程度で呼ぶな」「仕事を早退しなくてはいけなくて困った」などと、叱責されたことがあったのだろうか。

だったら悲しい。すごく悲しい。

お熱コールでかけつけたとき、子供がケロッとしていたら、親は「なんだ~」と思うし、場合によっては声に出すかもしれない。

でもこれは、「なんだ、これくらいで呼ばないでよ」の不満のなんだ、ではなく、「なんだ、元気で安心した!」の安堵のなんだ、であるはずだ。

なので、大きく体調を崩す前に、異変を察知できた保育力を誇ることはしても、親の仕事の都合まで鑑みて、申し訳なさそうにしないで欲しい。する必要がないからだ。

子供の熱が下がったのは、あなたの「仕事」が素晴らしかった結果である。多くの保護者と関わる業種ゆえに、親の職場での立場に想像がついてしまう部分があるが、それを調整するのは、保育士さんの業務範囲でなく、あくまでも親自身の問題なのだ。

「お熱コール」を受け取っていると、親としての葛藤や、仕事との折り合いばかりにトゲを感じてしまうが、歓迎されないコールを「必要だから、かけてくれる人」がいることは、忘れずにいたい。

保育士さんの気遣いをチクッと感じたとき、不思議とそれまで体内にはびこっていた、あの板挟みのトゲトゲの物体が、少し大人しくなったような気持ちになる。

これだけのプレッシャーの中で、自分の子供と愛情をもって関わり、職場では寄り添ってもらえなかったチクチクした痛みを、こんなに想像してくれる相手がいる。

思い出せば、毎日「いってらっしゃい」「おかえりなさい」と声をかけ、勤め人と親の顔を、せわしくいったりきたりする我々を、一番肯定的に、さも当たり前のことのように受け入れてくれたのは、保育士さんだった。

「お熱が出ちゃって、すみません…」
「お電話した後に下がってしまって…すみません…」

不安そうに胸の前で組まれた手に、職場で同じようにしてきた自分の両手を重ねて、「うちの子をありがとう、謝らないで」と伝えることができたなら、心に想うことができたなら、お熱コールのトゲトゲが、まるく膨らみ、軽やかな風船になって、胸から出ていく日も近いのかもしれない。

「お熱コール」は誰のせいでもない。
そして、おそらく、なくならない。
困った事態が付随することも、残念ながらある。

だけど親の中で育つチクチクの腫瘍を、大きくしないためのヒントは、その電話をくれる相手こそが、案外もっているのかもしれない。


記:瀧波 和賀

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