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読書感想文「限界集落の経営学: 活性化でも撤退でもない第三の道、粗放農業と地域ビジネス」斉藤 俊幸 (著)

 何が「限界」なのだろう?本当にそう思う。
 為政者や高級官僚にとって、田舎の集落を市町村役場の連中の尻を叩きながら救うのはクタクタになるので、もう限界だ、と言っているに過ぎない。田舎の役場には、ビジネスマインドがある奴がいるわけじゃ無いし、クリエイティブだったりインスピレーションが次々と沸く人材はいない。せっかく、チャンスとなる制度を作ってみたって生かしてくれないんじゃ、国の役人は嫌になる。その一方で、国がどう思おうと、集落なりの生き残り方、集落での生き延び方はある。じゃあ、国が直接、集落の連中と一緒にやったっていいじゃんと斉藤先生は言う。
 結局、小さな政府の新自由主義は誤りだったし、地方分権は必ずしも田舎の集落を豊かにはしなかった。鉄道の上下分離と同様に国がインフラ投資を行い、投資をした成果を明治政府と同じように官業払い下げしてもいいし、国が株式を持ってみても良かったのだ。もっとも、MINTO機構や、ふるさと財団などのようにリスクマネーを供出する仕組みだって実はあるのだが、国→都道府県→市町村と手続きの煩雑さと手順主義の面倒さにほとほと、嫌になっているのだ。公設民営でもいいし、特定目的会社をつくり、PPPやPFIの仕組みを回したっていい。
 人口減少が問題なのは、人口減少というフェーズで生業をどう成立させるのかが問題になってるのであって、人口増加の時代に「ベビーブーム」を手を叩いて喜んでいたことなんか無く、こんなに子どもが増えて、いったいどうするのだ!と嘆いていたのだ。ほらね、フェーズの違いに過ぎないだろ。
 どんな時代状況下だって、そこで生きる知恵を育み、取り入れ、生かすかだ。それは「やる」か「やらない」のかの違いだけだし、好奇心を持って進むかどうかなのだ。本来、生きるとは、自分が生きる地域にコミットメントすることだ。地域に直接、関わってきた斉藤先生は、令和の宮本常一なのかもしれない。


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