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(105) 砂漠にもペンギンがいる

「今月はお金が足りなくて」流石に後輩からそう告げられて、黙って知らないふりも出来なくて、三千円を財布に残して一万円札をかっこよく差し出した。

「先輩、単位が違いますよ」と、ツッコまれた。車を買い替える為の頭金らしく、どうも単位が違ったらしい。こんなことはよくある。「お金が足りない」がどの程度なのか、その言葉では計りようがない。こちらとしては、こちらの基準から想像するしかないからだ。

”言葉”というのは、厄介だ。受け手として、自分勝手に想像してドギマギしてしまう。定義がはっきりしない言葉は特に困る。どの程度なのかよくわからないからだ。

「寂しいの、私・・・(涙)」
「えぇ・・・それなら何とか時間作るよ・・・一緒にいるから」
「あなたじゃダメよ!」
学生の頃、そう言われて穴があったら入りたかった苦い思い出がある。
「俺じゃねぇのか!!」とツッコめばよかった。その「寂しい」も程度はピンからキリまで大いに幅が広く、受け手として困る”言葉”のひとつだ。

話し手の真剣度も大きく関係する。また、適切な”言葉”を選んでいるか、も大切だ。その時の表情・口調などに大きく影響される。そして”言葉”の定義が曖昧ではないか?によるというわけだ。受け手としては、思い込みはないか?、よく話し手を観察したのか?も大きな要素である。

「砂漠」と聞くと、「どこまでも砂地が続く灼熱の土地」をイメージするのが一般的だ。ラクダがいる、とも思うだろう。そんな中、「砂漠にペンギンがいるよ」と、言われて大いに驚くことになる。「砂漠」の定義は一般的に学ぶ機会はなく、専門家の領域だろう・・・などと関心を持たないから知らないだけのことで、チコちゃんに叱られるようなことでもないのだ。調べてみると、「砂漠」の定義とは「年間降雨量が250mm以下の地域であり、降雨量より蒸発量の方が多い地域」と、だけある。この定義からすると、その土地の砂の量や気温などほぼ関係はなく、サハラのような場所でなくても「砂漠」は存在することになる。となると、、南極大陸はその定義に当てはまり「砂漠」なのだ。北極もそうである。だから、「砂漠にペンギンはいる」のだ。

先の学生時代の苦い思い出に戻るが、私は彼女の言う「寂しい」を単純に受け取った。ひとりになるのが「寂しい」ぐらいに受け止めた。いやいや、彼女は「恋人」がいなくて「寂しい」と言いたかったのだ。「愛されていないから寂しい」という意味だったのだ。この誤差は、誰の責任でもないから、何かに腹を立てるわけにもいかない。

いちいち”言葉”ひとつひとつを定義して相手に伝える訳ではないし、話し手は自分のイメージを単に言葉に置き換え伝えるだけなのだ。所有する語彙の数にもよるし、思いついた言葉で気持ちが十分伝わるか?もあまり考えないでチョイスしているに過ぎない。受け手は自分流の解釈で”言葉”を受けるしか手はないのだ。双方で対話は出来ていても、かなりそこには誤差が生じていて、「わかったつもり」以上にはなかなかなり得ないことになる。

私たちは時に、話し手になり受け手になり、人と交流し関係性を保っている。そこには考えてもみたら大きな誤差があるだろう。”言葉”を介して交流する限り仕方のないことである。それで良いのだ。深刻に悩むことでもない。曖昧でファジーにしておけばいい。どんなものでも0~100まで程度が無段階であるのだ。せめて極端な0と100を表す”言葉”だけは、使わないように気をつけたいと思う。0と100は極端だからわかりやすいのだが、ズレも大きく危ないのだ。


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