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(35) 名刺

名刺をお渡しすることがない。
仕事柄、人にお会いすることが多い。教育委員会・学校・福祉施設・病院・大学など、緊張してお会いする方々であるが、その度ごとにご丁寧に名刺を頂く。不調法であるが、私は名刺をお渡しすることがない。だからと言って名刺を作っていない訳ではないのだ。ほっこりするデザインの名刺を持っているのだが、お渡ししないだけである。へそ曲がりなのだ。

「生身の私自身を見てください」
と、言う意味からだ。「生意気だ」とお叱りを受ける場面ではあるが、叱られたことは一度もない。だから、調子に乗っている。頂く名刺のほとんどが、三つ四つ五つの肩書が並んでいる。中には一体、何の役職なのかわからなかったり、読めない漢字が綴られた肩書きがあったりする。この肩書き・役職が嫌なのだ。この際、肩書きも役職も私には関係がない。その人、生身のその人との関係であるのだから、肩書き・役職をお知らせ頂く必要はない。お名前をお聞きするには、自己紹介で十分足りるのだ。

お会いし、一通りのお話をお聞きしたら、その人柄・仕事への姿勢は十分伝わるものだ。それが本当の意味での名刺だと思っている。だからひと言も漏らさずお聞きすることにしている。”この私です””名刺”と言うものだ。決して肩書き・役職でその人のことはまるでわからないのだ。

陶芸家の先生にお会いし、名刺を頂く機会があった。流石に印刷などではない。和紙に筆で直筆だ。朱で印も押されている。これこそ陶芸家の名刺だ。
「あれ?」
しかしよく見るとこの名刺、その先生の作品の写真が何点か印刷されたものがホッチキスでバチンと綴じてある。
「これ(作品)が先生です」
と、言わんばかりの印刷物である。それでは和紙に筆で直筆の名刺が台無しである。
「いやいや・・・、先生をお訪ねする以前に先生の作品は存じ上げている。だから来たんだ。この作品も先生(自身)に違いないが、この作品以外にも先生の作品はあるでしょう?その中から代表作はこれだと言いたいのか?この写真に載っていない作品は?窯出しの時に、これは私ではない、と割ってしまった不出来な作品をむしろ見たいんだが・・・」
と、言いたい。
「これが私であり推薦する代表作です」
それを名刺だと言う。それは違うだろう、と思う。こんな程度のことだから、名刺をお渡ししたくないし、出来れば頂きたくないのである。

頭の下がる陶芸の先生に師事していた時期がある。(先の名刺に写真の印刷物の方とは別の方)先生は名もない陶芸家である。いや、あえてそう生きていらっしゃるのだ。毎日毎日作陶され、薪を割り、畑を耕し、作品だけでは生計が成り立たないからと、奥様がカフェを営まれている。空いた時間、障がい者施設へボランティアで出掛けられ、土を用意して障がいをお持ちの方々に器を作るご指導をされている。その方々が喜んで製作されることが、先生の喜びなのだ。頭が下がる。そればかりではない。障がい者の方々の作品(ほとんどが作陶しやすい鉢かマグカップだが)を、山梨県のある村に年二回、先生自ら販売する為に軽トラで出掛けられる。その売り上げは、全て施設に寄付なさる。本当に頭が下がるのだ。私もそこへ出掛けて、出来る限りの作品を購入させて頂くことにしている。作品たちは、素朴で全体が分厚い(技術的に薄く作れないからだ)のだが、何とも言えない味わいがあり、
優しい空気を含んでいて素晴らしい出来なのだ。これが丸ごと先生の名刺なのだ。あの小さな紙片に書き表すことは決して出来ない。先生には、何一つ肩書きも役職もないのだ。只々、頭を下げるしかない。

確かに有名な先生の名義で、値をつけて作品を買って頂く以上、ご自身の認める物以外はお客さんに失礼でもあるし、世に出すことは出来ない、と言うのは決してわからない訳ではない。
「それが私の責任でもある」
と、言われたら
「そうですね」
と、答えるしかないのだが。
ただ窯から出して、いきなり納得できない先生の名義で世に出せない不出来な作品を割ることによって、”なかった事にする”ことが、私には残念で仕方がないのだ。割った作品たちも含めてあなた自身なのだ。”これが私だ”と認めたくないことが私達には山程ある。残念だが、私達はそれを抱えたまま出来るだけ人に悟られないよう隠しながらも背負ったまま生きているのだ。ある人は、人に見せたくないあまり、なかった事と圧力を最大限かけて抑圧し知らん顔する。健気で可愛らしいと思う。作品を割って、なかった事にするのに比べたら、はるかに上等である。しかし、長い間圧力をかけ抑圧したものは熱を帯び、いつか身体症状か精神症状となって表れてくるものだ。いつか、どこかで向き合わねばならないことになる。傷んでしまってからでは大変なのだ。

出来るだけ早く、観たくもない自分、憎むべきところ、やり切れない部分、醜いところ、こんなの自分じゃないと認められないところ・・・そのままでいいから、”認める事が何より大切”だと思うのだ。”認めて”それを”バネ”にしたら、それで良い。決して抑圧して隠さなくて良いし、なかった事にすべきではないのだ。”これは私の作品だ”と認めることの出来ない作品を、割らないでぜひとも全部棚に並べて、今度はこうならないようにと、教訓として残して貰えないだろうか。それも含めて、私の”名刺”ではないのだろうか。


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