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(41) ストローク

子供「お母さん、いま何時?」

母親「ええと8時5分だよ」

子供「ありがとう、じゃあ学校に行くよ」

母親「行ってらっしゃい。気をつけてね」

こうだと双方気持ちが良い。
これに対して、

子供「お母さん、いま何時?」

母親「忙しい時に何なの!もう高校生なんだから自分の時計見なさいよ」

子供「時計が止まっているから聞いたんだよ、すぐに怒るな」

母親「怒ってなんかいませんよ、あんたね、そんな口のきき方やめなさいよ」

子供「口のきき方?うるせえなぁ、なんでそこまで言う!」

母親「それよ、それ、その口答えよ!親に向かって言う言葉ですか!」

子供「自分が困ると、すぐ人の事非難するな!そんなの卑怯だろ」

私たちの日常は、時々こんなことになってしまうことがある。”時間を知りたい”という最初の質問どころではなくなり、二人のやり取りはお互いに相手を非難するという方向へ行ってしまった。普通こんなやり取りの後、腹も立っているし気分が良くないから4、5日口をきかないというのが相場だったりするものだ。親子っていうのはなかなか難しいものだ。親子だからいいだろうと、簡単に言えない複雑さもある。事が起きたその瞬間だけを見つめて、”何故”だろうと考えても、ほとんどその問題は解答にたどり着けないことが多いのだ。何故なら、日頃は気にもかけない”愛情確認”なんてことと何処かで深く関連しているからである。”大事な人の気を引く”という目的が隠れているからなのだ。「えぇ?高校生にもなって?」と、聞こえて来そうであるが、”大事な人の気を引く”という、言ってみれば”愛情確認”は年齢に関係なく、何歳になっても欲しいものである。必要だからと言って、回りくどく婉曲だったり、何度も何度もしつこかったり、察しろと横柄だったりするのは、決して関係性を保つのに良くない。年齢を重ねると、どうも自身の中でうっすらと自覚があるのだろうか、「いい歳をしてこんなことでは・・・」となり、その要求が屈折していくのだろう。あまり良い要求とならないことが多い。大いに嫌われることになる。

愚息のところに、一歳半になるチビ坊がいる。まぁ、やんちゃすると手に負えない。寝転んでそり返って主張する。また、声が姉の孫娘に似てでかいのだ。このチビ坊、何か思いつき、やりたいことがあると、近くにいる大人の手を取って一緒に来いと主張する。まだ言葉で主張できないから、手を出して大人に助けて貰いたいのだ。「僕やりたいから・・・一緒に来て」と、こちらを観察している風な顔をする。これが直球の”愛情確認”だ。了解を得られた時、大事にされたと実感するのだろうと思うから、気が抜けない。何処へ連れて行かれるか、よく分からないのだが、大きな意味があり、こちらが試されていることも重なって、命懸けで応えなければならない。これが何とも可愛い。また、明らかに自覚して、細いマジックペンが沢山入れてあるペン立てを逆さにして、床にマジックを撒き散らし、「ヤッ!アァ~?」と、「やってやった!」みたいな顔をして、こちらの顔を伺う。明らかに、「いいよ、いいよ」と、いう反応を期待した顔で、ケケケッと笑うのだ。これも一歳半なりの”愛情確認”なのだ。

※写真提供 KINE TO USU

これが”ストローク”を貰う要求行為である。要求行為をしなくても、チビッ子はただいるだけで愛くるしいから、ストロークを貰うことが出来るのだが、不足しているわけでもないが、要求行為に明け暮れる。それは天井知らずでいくらでも必要なのだ。あり過ぎて邪魔になるどころか、これが後の、「私は大丈夫だ」という”安心”を生み出すのである。”ストローク”とは、「子供が成熟するうえに必要不可欠な愛撫、タッチ、声、音などの生物学的な刺激」と定義され、なでる、さする、承認、注目といった、人間の精神生活に必要な様々な刺激のことである。

この”ストローク”は二つに分けられる。

①肯定的ストローク
それを貰うと良い気持ちになる刺激。頭をなでる。微笑みかける。褒める。じっくり話を聞く。

②否定的ストローク
それを貰うと嫌な感じになる刺激。殴る。睨みつける。皮肉を言う。欠点を非難する。

私たちは、ストロークを求めて人間関係を営んでいる。しかし、いつも肯定的ストロークを貰える訳ではない。心からそれでも肯定的ストロークを貰いたいと必死になるのだが、残念なことに相手は人間であり、その気分によって何が発せられるかわからないのだ。望みながらも肯定的ストロークが貰えないと、悲しいことだが私たちは否定的ストロークでそれを補おうとしてしまうのだ。

先の高校生と母親のやり取りは、お互いに自身に向けられる”愛情確認”を試みた末の言い争いとなった。貰えない肯定的ストロークに替えて、否定的ストロークでも良いからと、求めてしまう結果である。「ああ、人間してるな」と、思う。誰しも”自分は生きている”だけでは足りないのである。そんな私を”認めて”と、肯定的ストロークを貰いたいのだ。切ない、やり切れない。人間って、こんなものだ。



※今回、初めての試みとして・・・以前から親交のあるセレクトショップ『KINE TO USU』のオーナー様から提供して頂いた写真を1枚使用しました。ちなみに、お店は名古屋市中区新栄にあります。お近くの方は是非チェックしてみてください。

〜管理人より


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