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(117) 不安の渦中に生きる

「不安」とは何か?
先々の”不測の事態””想定”し心配することだと考える。

考えてもみれば、先々のことはまるで予測がつくはずもなく、分からないにもかかわらず、何故人はよせばいいと分かっていながら勝手に不安がるのであろうか?

私たちは生まれながらに”漠たる不安”を抱えているのだ。それは”漠たる”と言うだけあって、〇〇という具体的なものではない。動物たちとは違って、ほとんどの能力を持たず、誰かの助けがなければ生きられないという不安でもあり、無事・安全に生まれられるのか?という不安でもある。また、胎教の中で母から受け継いだ不安なのかも知れない。

育っていく中で、養育者との間で結ばれる”基本的信頼感”にもよるだろうし、それを基に他者との間に結ばれる関係性、その後の自身の”基本的構え”などを通じて、その不安は大きくなるのか、小さく収まっていくのか、誰にも想像出来るものではない。言えることは、大きいか・小さいかは別にして、”漠たる不安”は誰の中にも存在しているということだ。

消すに消せないその”漠たる不安”を、私たちは先々を思う時、まだ起きてもいないその先々に”投影”し、映し出してしまうのである。まるで分らない先々の事柄に不安を”投影”したものだから、不安でコーティングされてしまうのだ。不安を持ち続けているために、まだ起きてもいない先の事柄を不安と言う絵の具で塗ってしまうようなものだ。これらは、「先読みの誤り」「レッテル貼り」と呼ばれる「認知の歪み」なのである。

達磨大師に入門を許可された慧可(えか)が言う。
「私の心は、不安に満ちています。どうか安心させてください」
達磨大師は答えて言う。
「その不安というものを、わしの前に持ってこい。そうすれば安心させてやろう」

慧可は困る。
それは自身の「不安な心」を師匠である達磨に見せることが出来ないからだ。「これが不安だ」という心など何処にもないからである。こんなやり取りが伝承されている。
「確かに不安は誰しもが持っている。しかし、その不安にこだわるか否かによって不安は不安になり、また、なかったりするものだ」
と、いう教えである。

理屈としてはよく分かる。
出来たら腹に入れ「合点承知」と言えるようになりたい。誰にとっても、先のことはまるで分らないのだ。それを何だかんだと勝手に決めつけて不安がるのは合理性に欠ける。先の不安が目に前に本当にやって来たのなら、それは「現実」である。「現実」となった時こそ初めて、それを「現実」として受け入れ、その「現実」をどう生き、どのように対応するのかを考えれば良いのである。人は、先を心配しそれに準備をしているのでは決してない。先を「不安」だと決めつけ、慌てふためいているだけである。

生きている以上、私たちは「不安」の渦中に生きなければならない。だからと言って「不安」に圧倒されてしまう訳にはいかないのだ。私たちは”気づく”ことにより賢くなることも出来るし、合理性を身につけることも出来る。私は、生業上のこともあるのだが、”気づく”ことにより身につけることが出来るのなら、その”気づき”に出合うために苦労を重ねてもいいと強く思っている。今まで私が学ぶ機会がなく、知ることがなかった考え方・理論・技術・価値などもっともっと身につけたいと強く願い続けて目を光らせている。しかし、ギラギラした目つきはしない。ギラギラした目つきというのは「先入観」そのものだからだ。ボンヤリした目を目指している。その目で反応するものは。今の私に大いに必要なものなのだ。

「合点承知」は私のテーマのひとつである。「合点」とは「納得した」ということである。「承知」とは「引き受ける」ということであり、腹に入ったということなのである。「合点承知」と言うたびに、”世界”が広がる。だから、私は不安の渦中でも生きられるのだと思っている。


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