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(11) マイナス思考

「無意識」は、フロイト、ユングから現在まで、様々な場で論じられ定義されて来た。学者によって説明はそれぞれである。先生方の定義に共通しているところを探してみると、次のようになるのではないかと思う。

「意識されないが、認知や感情の経験や行動に影響を及ぼす心的状態」
一方私たちは日常の中ではせいぜい
「また無意識で貧乏ゆすりしてた・・・」
「無意識のうちにこれを選んでた・・・」

こんな感じで「無意識」を使うぐらいのつきあいでしかない。私自身も普段の生活では「無意識」を使うことは、「無意識でやってしまって本当にごめん・・・」と、言い訳をする時に重宝するぐらいである。しかし、生業上そんな使い方しているわけにはいかないから、本業に戻ります・・・。

人は誕生して”赤ちゃん”をする。周りの家族に手間をかけ、あらゆることはほぼ100%人の力を借りる。ひとりで何も出来ない。当然ママは一日自分のことは何も出来ず、ほとんど赤ちゃんにかかりきりである。”育児ノイローゼ”状態である。だが、邪心など全くない可愛いまなざしでこちらを見てニコニコと微笑みかけ、スプーンを差し出すと何でも口を開けて寄って来る姿に、何とも言えず癒される。可愛いからこれで親に掛けた面倒や心配はチャラで良い。良いに決まっているのだ。その後赤ちゃんは世話をしてくれる人たちとの間で信頼関係がどれくらい結ばれるかを経験することになる。出来ればその信頼は深く厚く結ばれるに越したことはないのだが、赤ちゃんごとにそれぞれである。これを「基本的信頼感」と呼ぶ。

そのうちママがベビー用品店で80~90cm、100cmというベビー服を買ってこなければならなくなるほど成長していく。そんな頃、赤ちゃんではなく幼児と呼ばれ始める。気が抜けないトイレトレーニングの末、オムツが取れてパンツを履かされるようになるが、時々おもらしをして散々でもある。幼稚園から、念願のランドセルを背負って小学校に通い始める。この頃位から、前述したそれぞれの「基本的信頼感」をベースにして「基本的構え」が作られていく。その「構え」とは、あくまでも基本であり一生かけて作られるものであるから、刻々と変化はする。私と他者に対して、それぞれ肯定出来るか、それとも否定するのか、という「構え」を指す。私・他者それぞれに肯定・否定があるから、パターンで言うと四通りということになる。

①自己肯定・他者肯定
②自己肯定・他者否定
③自己否定・他者肯定
④自己否定・他者否定

この四つのどれかが元”赤ちゃん”たちの構えとなる。出来れば①のパターンに育って欲しいと願いを持つが、そう簡単にはいかないものである。充分に認められ、愛され、大切にされて、”ぼく・わたしは大丈夫だ”という実感が自己肯定に繋がり、それに比例する度合いで他者への肯定感・信頼感を持つようになるものである。そんな具合であるから、①のパターンに成長していくことは並大抵のことではないのである。

今述べて来た、「基本的信頼感」と「基本的構え」を基にして、その後、元”赤ちゃん”は「中核信念」と呼ばれる”堅く信じ込んでいる心”を形成する。これは”レンズのようなもの”で、私たち人は誰しもこの”レンズのようなもの”というメガネを通して、人・物・事件・事柄などを見て感じ取ることになる。過去・未来もそのメガネを掛けて見つめる。問題であるのは、この”レンズのようなもの”が歪みを持たず良く磨かれたレンズであるかどうかが、私たちの人生そのものに大きな影響を与えるということである。そのレンズの磨かれ具合は先の「基本的信頼感」と「基本的構え」に比例しているから、事は厄介である。良く磨かれたレンズであれば、人・物・事件・事柄などを見る際、より真実に正確に正しく見えるのであるが、歪んでいたらその分それらを歪んだまま認知することとなり、苦しむ結果を生む。歪んだレンズで見たものは真実からかけ離れ不正確かつ正しい解釈に至らないのである。その上、その情報を自分の中に取り入れてから、元々持っている自分の思い込みを付け加えて”思考”を始める。情報が正しくない思考は悲劇と言わざるを得ないし、思い込みがまたその誤差を付け加えるから、なおさらである。

その”思考”が”感情”を生む、また、その後それらを基にして人は行動をすることとなる。この経過をたどるうち、見たものは誤差が誤差を生み、真実なるものからかけ離れた”思考”と”感情”、”行動”を作り出してしまう。言ってみれば、レンズの磨かれ具合が”マイナス思考”をしてしまう”犯人”とも言えるのである。

前述の①自己肯定・他者肯定の”構え”を持つことが何より根本である、ということになるのだが、そんな理想的に育った人はいない。どこを探してもいない。誰しもそれぞれの事情を抱えてハンディを背負って生きている。それが普通のことであるからレンズは歪んでいるものだ。だから、心配無用である。

ある哲学者の先生の講演で、”自・他共に肯定”の構えを持っていた人は、日本国内で探してみたら、幕末時代まで遡る、という話を聞いて、そんなにいないものなんだと大いに安心した。江戸城を無血開城に導くのに尽力したうちの一人である、「勝海舟」がそれであると言う。

無血開城の談判が成功裡に終わったのは、勝の交渉術を褒める向きが多いようである。確かに勝の交渉術は優れていたと聞く。しかし、そういうことではないのだ。勝は自著に「江戸中、官軍が乗り込むと言って大騒ぎの中、他の官軍には頓着せず西郷一人に眼を置いた。西郷は俺の言うことを一々信用してくれた。その間一点の疑念も挟まなかった」と、残している。これは、勝・西郷共に人と対峙した時、無意識に用意する相手への心の垣根の低さによるものであると思う。その垣根は、両者の意識が自由に行き来出来る高さなのだ。「自・他肯定の姿勢で生きる者同士の共感」の成せる業である。交渉に”刀”など無用なのだ。”交渉術”もである。確かにこの二人は、自・他肯定の構えを基本に持った稀な人たちである。官軍総大将の西郷は「色々難しい議論もありましょうが、私が一身に掛けてお引き受けします」と、ひと言勝に告げたという。他の者たちによる談判ならたちまち破裂だったに違いない。

努力はしているが、なかなか私自身が”自・他肯定”の構えなどに届いているはずはないから・・・明治・大正・昭和・平成・令和と時代は流れたが、勝海舟まで遡らないといないのなら、安心安心と胸を撫でおろしてばかりだ。
凡夫でしかない私は、凡夫であることをまず認めたい。無一物の存在である自分であるから、無理を一切しないで出来ることをコツコツと懸命に積み上げて行けば良いと決めている。そんな自分が好きである。”マイナス思考”は度々ある。でも、”マイナス思考”している自覚があるから、その度ごとに”プラス思考”に書き換える。毎回”マイナス思考”して来た。自覚があるから書き換える。これのくり返しを無理せずコツコツやって来た。お陰様で”マイナス思考”は激減した。自覚がないことは怖いことだと思う。

※参考文献
『氷川清話』勝海舟・江藤淳 松浦玲 編・講談社学術文庫


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