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(116) 追いつめ

「親からの声」というのはどうも行き過ぎる傾向にある。
一度でもそんなテンションからの発言があると、そのテンションが基準となってしまい、どんどん行き過ぎて、若い人たちを”追いつめ”ることになる。

「親からの声」というのは、【P】と表記される交流分析でいう五つの自我のうちの「親」の心の一方(クリティカル・ペアレンツ=【CP】のこと)である。【厳格な親の心】と訳されている。交流分析における”自我”とは、五つに分けられ、親の心(【CP】・【NP】)・大人の心(【A】)・子どもの心(【FC】・【AC】)とに分類される。それら五つの”自我”であるが、それぞれが”否定的”に使われるのと”肯定的”に使われるのとでは、大いに違いが出てくるものであり、合計十パターンとなる。

先の行き過ぎる「親の声」は、【CP】と表記される【厳格な親の心】が否定的に使用された場合に、叱責・非難という形で起きることになる。

「教育的」との名を借りて行われるものだから、行う側に使命感があったりして、行き過ぎているという「自覚」がどうも薄いものだから、受ける側はたまらない。同じエネルギーで反抗的に跳ね返せるのなら問題は起きないのだが、ほとんどの場合その関係性から言われるままで”追いつめ”られることになるものだ。単に”追いつめ”られて終わるなら始末のいい方で、その”否定”が積み重なって”自己否定”の渦の中に巻き込まれ、 ”自己否定”の道すじとなり深刻だ。

「善悪のけじめだけはつけさせたいと、厳しくしつけてきたつもりです。しかし、残念なことに子どもがよく嘘をつくんです。その度ごとに厳しく言いますが、嘘をつく機会が増えていると思うんです。しつけに自信を失くして
しまいました。どうすれば良いのか不安です」

と、涙ながらに訴えられることがよくある。
確かによく嘘をつく子はいる。一度注意して改まるのなら、もともと問題は単純だったのだと思えるが、いくら叱っても嘘が直らずエスカレートする様であるなら、叱り指導する親や教師がこれに加担しているのではないか、考え直してみる必要があるのだ。代表的なものが、生徒や子どもを”追いつめ”て、ついにその嘘を暴き出すやり方である。これに似たものに医師が患者さんに詐病(病気ではないのに病気を偽ったり、心気症から病を主張すること)を徹底的に追及するような接し方があげられる。

悲劇となり、命に関わる事件が報告されたりもある。
盗み・カンニングの疑いをかけられて、子どもが自殺することなど、決してあってはならない行き過ぎた事件である。子どもの気持ちを汲み取らない配慮に欠けた扱い方の最たるものである。

嘘とは正面から対決すべきだという姿勢は誤ったものではない。気持ちはよくわかる。しかし、嘘の「追及し過ぎ」から子どもを”追いつめ”過ぎたのでは、その効果は決して得られないばかりか、「子どもとの関係性」は大きく悪く変化してしまうことになるのが相場である。子どもとの関係は”ドラマ的交流”に変わってしまうのである。

成長し切れていない子どもたちは、厳しすぎる親の心の【CP】(厳格な親の心)で”追いつめ”られると余計な怯えから委縮してしまい(【AC】=子どもの心の中で、相手の顔色を見てそれに合わそうと順応する心のこと)、物事を判断しようとする大人の心【A】が働かなくなってしまうからである。成長途中である子どもでなくても、厳しすぎる”追いつめ”は大人である私たちであっても、怖くて【A】(大人の心)が働かなくなり、どうして良いのかわからなくなってしまうのは当然なのだ。

さて、その過度に”追いつめ”に走ってしまう親・教師たちは、何故そこまでなのか?と疑問であり心配してしまう。それには必ずそれなりの背景があるものだ。その人たち自身が、幼少期から苛酷な扱いや厳しすぎるしつけを受けて育っているケースが多いと考えられる。その目は、自分がそうされて来たのと同様、子どもたちのアラを探し、「お前はダメだ」という材料を暴き出すのだ。そしてある限りの力で搾り上げる傾向がある。悲しいことだ。連鎖という訳なのだ。

自身が幼い頃、親や教師から不当な扱いをされ、辛い思いをしたにも関わらず、その結果、鬱積した怒り・恨みを、時を経て全く関係のない目の前の子どもに爆発させてしまうのである。「悲しみ」や「怒り」「辛さ」は決して貯蓄すべきものではないのだ。その時、その時でその相手に返すべきものなのだ。リアルタイムに発散して、”私”を主張すべきである。季節外れの悲しみ・怒りは時を経て異質の場違いのものとなり果てている。これは悲劇であり、親や教師の子どもたちを相手に仕掛けられる”ドラマ的交流”なのだ。

関係性が成立していないことが、第一の問題なのだ。目の前の子どもたちの求めるものをより深く理解し、相手を養育しようという大人の心【NP】で見つめ直すことである。

難しいことではある。
しかし、子どもを見つめるその目だけは、”最善の子どもの利益”のために、「難しい」と言うのではなく、整える必要があるのだと思う。