(55) 繋がる”安心”
二歳になる孫のチビ坊が寄り道をしながら家にやって来る。途中にある空き地で草を摘む為らしい。その空き地にはたくさんの雑草が生えている。
どうもお目当てはエノコログサ(別名ネコジャラシ)のようだ。本当はタンポポの綿毛が一番のお気に入りらしいのだが、鼻や耳に入ったりする危険があるので、禁止されているという。エノコログサを片手に、騒がしくハイタッチで家に入ってくる。そのエノコログサで口の周りや鼻をチョロチョロと撫でる企みがある。
チビ坊は口唇期の只中にいる。乳を飲む事の延長線上にいて、口から満足を得ることで信頼と楽観的パーソナリティーを発達させるその只中なのだ。常にそうすることで”安定感””安心感”を求めている。そんな訳で自分から寄り道をしてまで、エノコログサを調達してくる。それで口の周りを撫でながら、「パウパトロール」というアニメを観るのが日課だ。チビ坊にとって、ママと繋がり”安定・安心”を貰い、エノコログサでもう一つ”安定・安心”を貰うのだ。「パウパトロール」もその一つである。チビ坊は幸せなのだろう、いつもニコニコしている。私はこのチビ坊の姿から、”繋がることの安心”を目の当たりにすることになる。
うつ病発症のクライアントが多い。
今ではそれほどポピュラーになり、数多くの方々が苦しまれ、窮地に追い込まれていらっしゃる。正しくは「気分障がい」と呼び、今は「うつ病」とは言わない。
「気分障がい」は一般的に”喪失”が引き金となる。その”喪失”というのも多様だ。会社内での配置転換(今まで従事していた仕事を替わり、別の部署へ行くことは、今までの仕事を失うということ)・昇進(昇進なのだからよさそうなものだが、今までの立場を失うことでもある)・引っ越し(今まで住み慣れた所を失うこと)、他にも転校・自己イメージが壊れる・最愛の人との離別・失恋・離婚など、”喪失”は誰の身にもすぐに起きそうなことである。その「気分障がい」の基本は、引き金になった”喪失”という出来事が大きいのだが、前提があり、それよりずっと以前に全ての人が経験しているはずであるが、人生初めての”愛情の喪失体験”(基本は、しがみついていた母親との成長過程にある別れ)が尾を引いているかどうかが決め手となるのだ。その尾の引き方の”強さ”がその「気分障がい」のディープさ(重篤かどうか)を決定するのだろうと思う。(私の臨床場面での実感である)出来るだけ早く、病院を受診し投薬を受け、余裕があるのならカウンセリングを受けられたら何よりである。心配はいらない。
さて、その病の基本は”喪失”なのだが、ここに大切なことが明らかにならないまま隠れている。私たちが元気で日常生活している中で、人によって大きく違いがあるのだが、”何本の糸”で繋がって”安定・安心”を得ているか、が重要である。繋がって”安定・安心”を得ているのは仕事であり、今の仕事に従事して生き生きやっているのが”唯一”だとするなら、これでは決定的に繋がりは足りない。何故なら、それを失ったら「気分障がい」にならないまでも、バランスを大きく崩すことになるからだ。他の繋がりがないからである。”唯一”の繋がりを失くすのだから、百パーセントの”安定・安心”の足場を失くすことになるのだ。”繋がる安心”は足場だと考えて欲しい。人生を生きる足場なのだから、それは建築の時の職人さんの生命を守る足場と同等なのだ。だとするなら、一つより二つ、いやもっと各ジャンルの多様な”繋がる安心”を持っていることが、豊かであり楽しさであり、何よりも”安全”なのだ。職場で二・三個、プライベートで五・六個、趣味で二・三個、関心を持つだけで五・六個、数あれば良い訳でもないが、一定の数と”繋がる安心”があるかどうかが大切なのだ。毎日が多忙である中、難しいことではある。
出来ることなら、時に傷つくかも知れないし相手を傷つけるかも知れない、辛いし辛抱しなければならないことがあるかも知れないが、”人と繋がる安心”もその中の一つとしてあることが望ましい。チビ坊は生意気にも、数えきれないほどの繋がりを持っている。ママ・パパ・姉・ミニカー・エノコログサ・糸くず・禁止されたタンポポの綿毛・粒ラムネ・ジジ・ババ・いとこ
近所の人たち・バスの運転手・・・挙げたらキリがない。それらと繋がることで、”安定・安心”をもらっている。これらが成長に大きな意味を持っている。体重は十キロそこそこなのに頑丈な足場を築き、”安定・安心”の只中にいる。”万能感”も持ち”信頼感”を作り、楽観的パーソナリティーを築いたら良い。
人は誰しも苦手分野を抱えているものだ。
なかなか一度でも苦手に思うと、手を出さず知らない顔して素通りするものだ。苦手のままでいくらか時が過ぎると、敷居が高くなりますます手が出せなくなるものだ。それは”思い込み”でしかない。苦手意識はそのままで構わないが、どうしたら楽しみながらそれが出来るか、関わることが出来るか、
を考えると、意外と軽く向かうことが出来るようになるものだ。苦手な事であっても、”楽しんで”を念頭に置いて考えたら、それはさほど気にならなくなるものだ。
そんな工夫をしながら、”繋がる安心”を時間をかけて増やしていけないものだろうか。”唯一”だったりすると、依存傾向の強い繋がりになる可能性が高くなる。”失う”と大きな痛みとなってしまう。私たちは成長していく過程で様々な”喪失”を経験しなければならない。その”喪失”の度に痛んではいられない。豊かな繋がり(足場)を用意して”喪失”による痛みを和らげたいものである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?