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(83) ”顔”の見えない母

「私は子どもを産んでいいのでしょうか?」

困る。
このように疑問形で「主訴」を訴えられるのは困る。それは、私が答えるべき「訴え」ではないからである。夫婦間で「子どもをもうける」のかどうか考えて決められるべきことなのだ。

二年前の夏、依頼を受けて養護教諭の先生方の研修会で教鞭を執った。テーマは「カウンセリング・マインド」であり、少々得意とする分野であった。昼休み、ひとりの先生から話があった。以来、今も面接が続いている。

「両親が離婚しています。その離婚は私の生後六ヶ月の時だったそうです。ですから、私は父方の祖父母と父の手で育てられました。当然、私は母の”顔”を知りません。事あるごとに母の夢を見るんです。母に抱かれていたり、幼い私が母を追いかけている夢なんです。また、母が私の名前を呼ぶので、声のする方をふり返るのですが、母の”顔”がぼやけて見えないのです・・・」

母の”顔”を知らない幼児が、現実でも夢の中でも母を求め続けて今日まで生きて来た。求めても求めても与えられないそのやり切れない喪失感は「自己の存在」さえも危うくするはずである。
「そんな私ですが、今日までやっとの思いで生きて来ました。仕事にも恵まれ、結婚も出来ました。夫は子どもの誕生を強く望んでいます。私が・・・子ども産んでいいのでしょうか?母になれるでしょうか?」
左手首の内側に複数の切り傷の跡が痛々しく、彼女の歴史を物語っている。

二歳になった孫のチビ坊を、ママの所用で我が家で預かることがある。チビ坊はママから事情を聞かされ、ほぼ納得しているらしい。靴をペッと後ろに乱暴に脱ぎ捨ててひとりで上がってくる。その様子から事情をほぼ納得していることがわかる。ドアを閉めると、その足でママは姿を消すことをチビ坊は知っているのだ。

さて、今日は何して暴れるか、どうも画策しているらしい。チビ坊なりに決まると必ず彼なりのルーティンが始まる。
「じいじ!ママ?」
と、決まって尋ねる。助詞がないが、「ママは?」のつもりなのだ。
「ママはお買い物だよ」
「えぇ~」
不満なのではない。私に答えさせて納得しようとしている「高等な企み」である。笑っているのがその証だ。
「じいじ!ママ?」
と、第二弾。
不満な顔ではない。大声で笑っているのだ。これがチビ坊のお決まりのルーティンである。「腹を決める」ためなのだ。毎日四六時中ママと居て、好き勝手にやらせてもらい、姉が学校に行って留守をいいことにママを独占している。チビ坊は満足なはずだ。いつもニコニコ顔だ。ママのいない時も、ママの笑顔が容易に浮かぶはずだ。爺では不満だけど、預けられてもママが傍にいるイメージがあるから全然大丈夫なのだろう。

「先生のカウンセリング・マインドのお話しをお聴きし、カウンセリングを受けようと通い始めました。お孫さんのお話は衝撃的でした。ママが傍にいるイメージさえあれば、チビッ子は大丈夫だと言う話・・・私、チビッ子の傍に居続けます」
「傷んだ貴方の歴史を背負いながら、チビッ子に伝達しないで、あなたは凛として子の前に立ち、『大丈夫だよ、ママが居るね』と声を掛けてあげてください。あなたが痛むのならご主人が支えてくれるはずです。二人でも負けそうなら私に電話をください」
「先生のお言葉・・・”ただ傍に居る”・・・私も子どもにそうしようと思います。四ヶ月半になります。十月出産予定です」
「良かったですね。今の貴方なら大丈夫です」
「先生、母にどうしても会いたいんです」
「許せますか?お母さんのこと・・・」
「はい、最初から恨んでなんかいません。会いたい気持ちでいっぱいなんです。いつか会えると信じています。住んでいるところもわかっています」
「それは良かった。ご夫婦とチビッ子三人でお母さんに会いに行ってあげてください。辛かったね。長い間、本当にお疲れ様でした」


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