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(45) 晃子 ー 秋桜

「なるほど、これがグリーン車なんだ」
そう独り言を言いながら晃子は5-Cに腰を下ろした。日帰りとはいえ、休みのはずの土曜日に大阪まで出張というのは、ひどすぎると晃子は思っていた。不満を持つだろうことが分かっていながら、敢えて晃子が選ばれたのには、それなりの意図があった。

晃子の勤める斉木企画室は、会社の一セクションのような印象を与えるが、れっきとした商品開発を担当する株式会社である。その筋ではユニークな会社として知られ、かなりの実力を備えていた。代表の斉木茂は、自らを室長と名乗り、名刺にも室長と印刷させていた。社長、部、課長もなく、社員はみなコンセプターとして位置づけられ、その平等意識がチームワークを強いものにしている会社であった。企画室は、今、一丸となって大きな仕事を手掛けていた。来秋発表予定の画期的な軽自動車の企画開発であるが、テーマからデザインはもちろんのこと、価格設定まで一切を任されていた。丸三年に及んだこの企画開発は、最終段階を迎えていて、今回の出張目的は、シートを含めた室内の材質と色の決定であった。もちろん車は、春からコースでのテスト走行をくり返し、ほぼ完成に近い状態であった。いつもそうであるが、斉木企画室の仕事は、商品発表当日まで秘密保持厳守が最重点なので、
コンセプターたちは、決して特別な場合以外は、書類を室外に持ち出さないのが原則であった。今回の出張の場合には、この企画全体が推測できるだけの書類は持たず、必要最低限の資料を入れたUSBメモリーを、二つ三つに分け持参する注意深さである。斉木室長は、重要な出張であることや、本来なら休みのはずであることを考慮して、晃子には特別待遇を用意した。往復グリーン車を室長自ら予約してくれたのであった。今回の企画に、晃子のレポートは随所に採用されていて、特にシートをはじめ室内デザインはほとんど
晃子のものであったし、既に決定されている”コスモス”のネーミングも晃子が出したものであった。そんな背景があったから、得意になり、安易に流れて欲しくない意味もあってか、室長は今回の出張を晃子に命じていたのである。

静岡を通過した頃、コーヒーを注文した晃子は、ふと車窓に目を移し、この企画が始まった新入社員の頃を思い出していた。三万人に及ぶアンケートと聞き取り調査の結果、一番多かった車名は”ゼロ”、二位が”ピア”、三位は
”インターセプト”であった。晃子は、どうしても納得できなかった。来る日も来る日も、百位まで並べた表を見つめて、「何か違う、どこかしっくり来ない」と思い続けていたある日、室長が両腕に一杯の秋桜を抱えて入って来た。
「友里、誕生日おめでとう。来年は彼から貰えるように努力すること」
と、言いながら笑顔で友里に近づいた。山口友里は晃子の先輩で、インダストリアルデザイナーであった。
「室長、ありがとうございます。こんなにたくさんの秋桜見るの初めてですよ。感激です」
「先輩、おめでとうございます。先輩、東京生まれですもんね。秋桜を見る機会なんかないですよね。私なんか田舎育ちだから、休耕田とか道端に秋桜が一杯でしたから・・・」
と、友里に言いながら、晃子は花瓶に水を入れて友里に差し出した。
「秋桜も良いけど、仕事仕事。私、今日中にコンセプトを見直して、名前つけてあげないといけないんだわ」
と、晃子は急に慌てだし、デスクに着いた。
「あっ、室長、私来月ですけど薔薇でお願いします」
「うーむ、与えられた仕事をしっかりしたらの話だ」
茶目っ気のある晃子は、ペロリと舌を出し首をすくめた。

周りの雰囲気がどうであれ、晃子には車名推薦の仕事があった。
「コンセプトは”驚きと広がり”か・・・。広がり、広がり・・・。”驚き”については、新エンジン・価格・スタイル・機能の点からも十分だから、あとは”広がり”からネーミングってわけだ」
と、晃子は独り言を言いながら、友里の机の上に置かれたコスモスの大束に目をやった。
「秋桜か、可愛いなぁ。秋桜の花束ってちょっとないけど、室長もいいセンスしてるわ、さすがデザイナー」
と、一人感心したかと思うと、
「ちょっと待てよ、コスモス・・・確か”宇宙”なんて意味があったはずだわ。これだ、これ、”コスモス”これこそ”広がり”そのものだ。”宇宙””宇宙”。ついでにシンボルカラーは深いブルーのメタリックね。やったぁー!」
こんな感じで始まったんだ、と、晃子はぼんやりと車窓を眺めながら、深いため息をついた。これで一つの仕事が終わるという充実したため息でもあった。
車窓から浜名湖が見えると、晃子は子供がするように身を乗り出して、キラキラ輝いている湖面に見とれた。滋賀県の長浜で生まれ育った晃子にとって、湖は懐かしく安らぐ風景であった。
「そう言えば、ここしばらくお母さんにも会っていないなぁ」
そう独り言をつぶやいた。

「新大阪ー」
車内のアナウンスに目を覚ました晃子は、腕時計にふと目をやり、あと一時間あるなと、時間を確認すると、足早に駅ビルのカフェに向かった。
「梅田まではすぐだから、ひとつコーヒーでも飲んで気合を入れるか」
初めての重要な会議に臨む晃子にとっては、相当なプレッシャーなのであろう。コーヒータイムは晃子にとって貴重な時間であった。さすが業界トップ、世界のT自動車である。一階ホールは、テニスコートが二つ出来そうな広さで、インフォメーション嬢が正面に座っていた。
「開発事業部会議室は、どちらでしょうか」
晃子は、インフォメーション嬢に尋ねた。
「本日はありがとうございます。八階でございますので、右のエレベーターをご利用くださいませ」
洗練された口調に、晃子は驚きを隠せず、戸惑った様子で、
「あ、ありがとうございました」
と、深く頭を下げた。
ふと頭を上げた晃子は、
「あれ?」
と、場にそぐわない大きな声を上げ驚いた。インフォメーション嬢の机の上に、秋桜が数本飾ってあるのを発見したからであった。晃子は咄嗟に、
「その秋桜、一本いただけないでしょうか?」
今度は逆に驚いた様子のインフォメーション嬢は、
「はい、よろしければどうぞお持ちくださいませ」
と、晃子に紫色の秋桜を一本差し出してくれた。
晃子は、少し出てきた余裕に助けられ、胸に秋桜を差し、
「よーし!」
と、号令めいた声を出し、エレベーターの表示に目をやった。


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