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(54) 加奈子 ー 移りゆく季節の中で

駅には独特の匂いがある。加奈子は、人の流れの最後尾を確認すると、ゆっくりとホームを歩きながら、そう思った。
「この匂いは、東京駅だけのものなのか、それとも、四谷でも感じることができるのだろうか。あの頃の私は感じていたのだろうか。待てよ、私だけが感じているものかもしれない」
新幹線の改札を抜けながら、加奈子はいつものように考え始めていた。
「これがダメなんだ。これを卒業しようと思って旅に出ようと思ったんだし、そのために忙しい年度末に休暇をわざわざとったんだから・・・止め止め」
ふと加奈子はそう呟き、中央線ホームへ向かった。

加奈子は高校教師をしている。特別理由があるわけではなかったが、静岡市内の私立高校を選んだ。以来五年、そのミッションスクールで社会を担当して来た。出身は愛知県渥美郡であるが、大学が東京だったこともあり、愛知県には戻らずに途中下車したままである。高校は春休みに入っているが、教員は休みというわけでなく、次年度の準備で一番忙しい時である。教員にも有給休暇はあるのだが、通常時には実質的には取ることも出来ず、こんな形でしか休むことは出来ないものだった。どうしたいわけでもなかったが、加奈子はただ休みたいと思った。休暇願いを提出した後、久しぶりに東京にでも行ってみるかと思った。この五年、休みたいと思うことなどなく、順調に教師生活が流れてきた。若いということにも助けられてか、生徒たちからは信頼も厚く、父兄からの支持もあり、教師仲間にもうまく溶け込めていた。疲れという程のものではなかったが、放課後図書館からの街の風景を眺めるたび、加奈子は何か重くのしかかるやり切れなさを感じていた。桜の花の香りで一年が始まり、梅雨時の雨の匂い、真夏のジリジリとした陽の匂い、秋風の持つ独特の膚から感じる匂いの実感、畑で何かを焼くのだろうか初冬の煙の匂いなど、加奈子はすべてを寂しい気持ちで受け取っていた。心のどこかで、無意識のうちに東京時代のそれと比較していたのだろうか、どちらが良いとか悪いとかの問題ではないのだが・・・。正直なところ、加奈子にはよくわからなかった。

四谷で下車した加奈子は、懐かしそうに駅舎を眺め、何かを確認するかのように目をやり、二、三回大きく頷いた。キャンパスへ向かって歩きながら、時折その動作をくり返していた加奈子は、交差点で立ち止まり、
「もうなくなってしまったのかしら、コンビニになっているわ」
と、呟いた。
加奈子の学生時代、と言っても数年前ぐらいのことだが、このコンビニの場所にはドルフィンという喫茶店があって、屋号ほどの洒落た店ではないのだが、よく通ったものだった。
「へぇー、時代は変わるんだわ。もちろん、昔のままというわけにはいかないもんね」
と、呟いた。独り言を呟き、キャンパス方向へ歩き始めた。ふと桜並木を歩いてみようかと思い、加奈子は道を変えた。三分から五分咲きぐらいだろうか、控えめなのも結構いいもんだと思えた。固い桜の香りは、少々酸っぱく感じ、満開時の甘さはなかった。埃にまざった固さを感ずるその香りに、加奈子は懐かしさに胸が熱くなる思いを感じていた。

キャンパスは春休みということもあってか、人影もまばらで活気はなかった。加奈子はベンチに腰を下ろし、ただぼんやりと二号館を眺めていた。加奈子は両手を上げ深呼吸をすると、ちょうどこのベンチに腰を下ろした入学時の頃を思い出した。下宿を契約するために上京した父を、あの時肩を並べてベンチに座り、今日と同じように二人で二号館をぼんやり眺めていた。
何を思ったのか、その時父は、
「東京にも匂いがあるんだな。これが東京の匂いか。加奈子、とりあえずはこの匂いに慣れることだな。渥美の匂いも忘れないで欲しいけど・・・」
と、妙なことを言った。加奈子は、その頃を懐かしそうに思い出しながら、あの頃から雰囲気を匂いで感じとり始めたんだろうなと思った。父が何気なく言ったあの言葉に、大きな影響を受けたのだろうと自覚した。
「あれ、そういえば渥美に居た頃は、どんな匂いを感じていたんだろう。そのこと考えたことなかったわ。そうだ、今日お父さんに手紙でも書いてみようかしら」
そう呟いて、加奈子はキャンパスを後にした。

ホテルの部屋からは、四谷の街が眺められた。レースのカーテン越しにやわらかな春の光が差し、部屋の半分ほどを明るくしていた。腰を下ろした加奈子は、ホテルに用意されている便箋に向かって、父への手紙を書き始めていた。東京での学生生活、そして静岡での教員生活をふり返りながら、加奈子は受け身でしか生きて来なかった自分を感じていた。渥美で生活していた子供の頃の思い出に、匂いで感じとる瞬間がなかったことなどを思う時、あの頃は自分自身が匂いであったことに気づいたのであった。東京でも静岡でもあれ程までに周りの匂いを感じたのは、自らの匂いを失くしていたからなのだろうと加奈子は自覚した。父への手紙の手を休めて、加奈子はシャワーを浴びた。何かが吹っ切れた軽さを感じた加奈子は、バスタオルを身体に巻いたまま、ベッドに大の字になった。加奈子は、父への書きかけの手紙を手に取ると、大きな声で朗読を始めた。

前略 父上殿

お元気でお過ごしですか。
私は今、春休みを利用して上京しています。特に何かあったわけでもないのですが、ちょっと元気を失くしていたものですから、原点にでも返ろうと思って上京したわけです。今日、その原点まで行って来たのですが、昔の感覚はなくて、特に強く懐かしさを感じられたわけではありませんでした。入学の時、お父さんと座ったベンチでしばらく休んだのですが、急に懐かしくなって手紙を書こうと思ったのです。渥美はもうキッチリ春でしょうね。桜は散り始めていますか。久しぶりに上京してみて、渥美がどんなにか私にとって大切な場所であるのか、見えてきた気がするのです。

「ふうん、これ以後どう繋げるのか難しいなぁ、何だかもう面倒になっちゃった。こんな手紙止めて、帰ってみるか。直接お父さんに話せばいいか」
加奈子は起き上がり窓際に行くと、レースのカーテンを開け、桜並木のある堤防へ目をやった。身体の中から、何か湧き上がってくる力を感じるのだった。


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