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なんとも言えない感情の根拠

出版された小説とそれ以外の小説。
その違いは何か。

それは、プロアマや出版社を介しているという物理的な違いや、知名度の有無という話ではなく、読み手としての感情の話。出版されている小説とその他小説は、読むときの意識に大きな違いがあるのだ。

私は今(亀の歩みで)小説を書いているわけだが、noteに投稿されている小説もいくつかフォローして毎日読むのが日課になっている。

学生時代は、文芸創作学科という学科の特性上、小説を書くということが課題になることが多く、学生同士で読み合い、意見交換をするということが多かった。

出版されてないから面白くない、ということは全くない。好みの問題もあるが、出版されていても首を傾げるものも有れば、出版に至らずとも人に勧めたくなるほどに楽しめるものも多くある。

ただ、やはり絶対的に気の持ち方が違う。

その原因は「校閲」を踏まえていないことだと考えている。誤字脱字や「てにをは」の不一致、無意味な重複や発言の信憑性等、どんなに気を使っていても、「万が一」。1万字に1つは必ずある。

それが作品の邪魔になることも。
作品の世界にどっぷり浸かって楽しみたい。だが、「ん?」と思う要因は、私を現実世界に引き戻す。

些細なことだ。意味だって通じる。
それ自体が作品の価値を左右するものではない。

だが、なまじか校閲作業を経験し、仕事上でも似たようなことをしていると、気にせざるを得ないのだ。

出版された小説には、安心感がある。
不必要な疑問に、作品の世界を遮られることがないからだ。

問題は、同じ着眼点を自分の小説にも持つことができたら…と思うが、それはまた別の話だ。実際、毎日投稿するnoteの1000文字前後の文章すら、満足に書けないのだから。

悩みは残るが、「精神的な問題の根拠は、必ず物理的な要因に基づくもの」に気がついた。ちょっと考えれば当たり前のことかもしれないが、これに気づき、腑に落とせたことは大きな収穫だ。

・・・

私は私の感情を、説明できないことがしばしばある。言葉が出てこないということもあるが、その感情の根拠が何なのかが分からないことの方が多い。

もちろん、全ての感情も理詰めで説明できるとは思ってない。そんなのはなんだか胡散臭い。

しかし、他人には理解されなくても、自分の中で納得できる方程式くらいは見つけたいなと思うのだ。

説明できない感情というのは、感情もそのものも曖昧だったりする。嬉しい、悲しい、楽しい、辛い、とはっきりとした感情であればその根拠もハッキリしているのだが、人間の抱く感情なんぞ、そんなハッキリしているものばかりではない。

ハッキリしない感情は感覚に近いと思う。
以前、「大切なのは感情か、感覚か」という記事のなかで「感情は絶対的で、感覚は相対的」と書いた。しかし、断言はできないけど、いつもと比べて判断できる感情も少なからずあるな…と、今は感じている。

そんな感覚に似た名前のない感情に、向き合っていくことも創作活動の一つという話。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。