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学ぶことを面白いと思える時

あなたがこれまでの人生の中で「学ぶことが楽しい」と思えた時期はいつだっただろうか。

私は間違いなく今だ。
新しく「知る」ということが嬉しい。
またうっすらとしかない知識に肉付けをしていける楽しさを味わうことの喜びを知った。

ただ、強いてもう一つ挙げるとするなら幼児期、つまり3〜6歳だと思う。幼児期は、すべてが遊びであり、全てが学びだった。

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幼児教育において、主流は「自由保育」だ。
子どもが興味を持ったものを、主体的に自由に遊ばせることこそ、幼児期の教育に必要だという人が多い。

子ども自身が好きな遊びを好きなように発展させることこそ是とされており、より能動的な遊びを目標としている。

反対に、自由保育の反対にあるものとされているのが「一斉保育」だ。子どもたちは、指導者が用意した遊びや教材を、共通に進めるほうだ。

この一斉保育は、少なくなっているのが現状だ。子どもたちが受動的になってしまうのが問題視されているからだ。

子どもは遊びの中で、学びを得る。
だから自由保育が最善…と考えるのはとても危険なことである。

そもそも、自由保育の反対は不自由…になってしまう中で、そこに一斉保育が位置づけされていることにも私は納得していない。

子どもにとっては、楽しければなんでも遊びだ。しかしそこに学びがあれば、砂遊びもお絵かきも粘度もブロック遊びもおままごとも造形も折り紙も、なんだって教材なのだ。

そして、お絵かきが苦手な子、折り紙が好きじゃない子、そういう子どもたちに面白いと思わせる技術こそ、保育士・幼稚園教諭に求められるのだが…果たして、そこまでの技術を身につけて職につく先生はどれくらいいるのだろうか。

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一般的に近年の教育の話題は、中高の指導法に関するものが多いが、これは中高時代の教育に不満を抱えた大人が多いためだ。

しかし、私は問題の芽は幼児教育にあると思う。自分がしたい遊びだけを自由に発展させた結果、「興味がないものは面白くない」「嫌いなものから学ぶものはない」という思考を持ってしまうのだ。

何故か。中高時代の「やらされた」教育の苦痛は、幼児期にも同様だという勘違いをしているからである。中高時代の勉強が楽しくないなんて当たり前なのだ。興味の対象が増えるからである。

しかし「自分のときはこうだった、だからこうすべき」と教育を個人的な経験則で語るのは、家庭環境・社会情勢などあらゆる点で違うのだから危険なことだ。加えて、幼児期と中学・高校の教育を同列で考えることなどあってはならないことだ。

幼児教育こそ、高度であるべき。

そう考えると、幼稚園保育園・小学校・中学校・高等学校・大学という順に、指導者が優秀であり年収も高いという現状のままでいいのだろうか。

何事も土台が大切なのに。

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国語専攻であり、教科の土台は国語であると考えている私が、大切にしている教育法は「読み先習教育」だ。

漢字は読めればいい。書くことは後だ。
諺や俳句なども読めればいい。大人になれば意味が自ずと分かるようになる。

まず体に入れることが大切で、ゆっくり時間をかけて自分のものにしていけばいい。

だって、ただ詰め込んでいた古典も歴史も、今の私を豊かにしてくれている一因である。
また、あの頃理解できなかった勉強も、うっすらとした記憶として私の中に残っているおかげで、20年以上たった今「こういうことだったのか」と腑に落ちる経験ができた。

スティーブ・ジョブズが言っていた「Connecting The Dots」とは経験だけでない、学びも同様なのだ。

中高時代の学びもやらされておくべきだ。形を変えて、人生を支える一助となることもあるのだ。

まぁこれも私の個人的な経験則に過ぎないのだけれども。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。