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目新しさや奇抜さよりも。

私は個性的な人が好きだ。
そう話すと、友人たちは外見の奇抜な人を思い浮かべるがそういうわけではない。外見は普通な人がいい。

いつから人は「個性的」と聞いて「常識から外れたもの」と連想し、それを見た目で判断するようになったのだろうか。

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塾講師時代、講師の中に1人の理系女子大生がいた。その子は、季節に関係なくお尻が見えるようなホットパンツを毎日履き、胸元も開いた服が多く、常に髪色が明るかった。私が彼女と初めて会った時は綺麗なピンク色だった。ブリーチを何度も重ねているから、色が落ちても鮮やかな金色で、赤くなったり紫色になったり…メッシュ状に3色以上の色を入れていたこともある。確認とために言っておくが、彼女は塾講師である。

故に、「あの人が先生?」「あの髪色で?」と思われることが多く、保護者ウケは良くはなかった。しかし、実際は頭も良く、面倒見もいいので、子供たちからの人気はそれなりにあった。

私は彼女と一緒にいることが多かったこともあり、担当生徒から「先生も髪染めないの?」と聞かれることが多かった。お世辞にも私は外見が個性的とは言えない。髪色・顔・服装、全てにおいて一般的だということは、生徒の目から見ても明らかだったのであろう。

すでに茶色には染めているし、主任として保護者対応をすることもある。いや、立場も関係なく「髪色を紫色にしたい」などという気持ちがこれっぽっちもない。そのことを伝え、染めたほうがいいのかと問うと「だって、個性的でかっこいいから」と言っていた。

彼女自身も髪色で非難される度に「これは個性だ。髪色で判断されることは違うと思う。」と主張していた。

まず感じるのは、自分で選んでいる以上、個性だと主張するのであれば否定も肯定も受け止めるべきである。生まれながらにピンク色の髪であるならばともかく、すでに備わっているものから逸脱したものを選択している以上、仕方がない。「見た目で判断しないで」というのはお門違いだと思う。

そして、やはり外見の奇抜さは、個性なのかという疑問が残る。

どんな服を着ても、どんな髪色をしても、残るものが個性だと思っている。生徒たちにも同様のことを伝え、子供たちには個性よりも感性を磨いてほしいな、と今でも願う。

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これはきっと、作品も同じことだ。
目新しさや奇抜さより、その背景にあるストーリーや作家の抱く哲学こそ、人の心を揺さぶるなんだろうな…と。

むしろ、そうであって欲しいのです。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。