安心感が感性を削ぐ
朝、まだ脳が覚めやらぬ通勤中の電車内で、ふと「そういえば、この前行った個展が素敵だったな。」と思い出し、スマホのカメラロールでもう一度見ようと写真を探した。
今私は小説もちびちび書いているが、何か造形作品も作っていきたいと思っており、モチーフやコンセプトを考えているのだが、その個展はヒントになると思い2〜3枚写真に撮った。
個展の主は誰だかわからない。ふと通りすがりに見つけたもので、大小様々な彫刻作品と光の融合がコンセプトらしく、手のひら大のランプシェードから、暖炉のような光を灯すオブジェなどが飾られていて、「私もこんな作品が作りたい」と思い、忘れぬようにと写真を撮った…つもりだった。
しかし、いくらカメラロールを探しても、その写真が出てこない。構図にこだわり、一緒に行った友人を待たせてまで写真を撮ったのに。ちゃんと頭の中では、空間を思い出せるのに。
ついに会社の最寄り駅に着いてしまうと思ったタイミングで、とんでもないことに気づく。
しまった。あれは夢だ、と。
そう気付いた瞬間に、多少おぼろげではあるがさっきまで思い浮かべることができた空間が泡のように消えていき、今となっては漠然とした色合いなどのイメージまでしか辿ることができなくなってしまった。
・・・
写真に撮ったことで安心し、記憶から消えてしまう経験は、誰にでもあるのではないかと思う。写真に撮っておけば、スマホでいつでも呼び出せるからだ。ひどい時は「こんな写真撮ったかな?」と思うことすらある。
「写真に撮れば、いつでも思い出せる。」
その安心感が、感性を削ぐということになるのではないかと思った。
写真に残したいと思うものは、美しい景色や心動かされる物など、感動したものを被写体にすることが多いだろう。しかし、写真に撮るということは、記憶の補完や共有のためには最適な方法であると考えるが、あくまでも補助的役割。本当に感動したのであれば、カメラのシャッターを押す前に、心のシャッターを押す必要がある。
心に刻み込むためには、被写体を見ることに集中する。カメラのように一瞬で収めることはできず、時間のかかる作業だ。楽ではない。しかし、その作業こそ感性を養うには最も有効で、記憶にも残る方法である。
ちなみに「心のシャッター」は松任谷由美の歌詞にあったと思うが、タイトルが思い出せず、検索をしてみた。
すると、一般的にはガラガラガラと閉めるシャッターの意味で、心のシャッターは押すものではなく閉じるものと解釈されているらしい。
なんか、味気ないな。
「松任谷由美 心 シャッター」で調べなければ出てこなかったのも残念。ちなみにタイトルは『月夜のロケット花火』。
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改めて、感性を失うのはとても怖いと思った。
しかし、分かっている。
1番怖いのは、夢と現実の境を見失った私であるということ。
今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。