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曖昧なままでもいいこと

「言葉にすれば」などという合唱曲があったような気もするが、言葉にすれば良いことであれ悪いことであれ、その思想は強まるのではないかと考えている。

言葉にすれば…というよりは、声に出せばと言ったほうが正確だろう。たいして思っていないことでも、毎日声に出していれば、その気持ちは膨れ上がっていくものだと思う。

洗脳なんていうのはその最たるもので、一つの信仰に対して何度も声に出して唱えているうちに、その言葉が体に吸収していくから起こるのだと思っている。

スピリチュアル的な話がしたいのではない。ただ、自分の声を誰よりも近くで聞いているのも自分自身であるということだ。

もっとも、普段から自分の声を1番近くで聞いているなどという自覚はない。しかし、ただ脳内で考えているだけのことより、脳で考え、口に出すという信号を出し、口を動かし喉を震わせてその言葉を発し、その声は外の空気と混ざって耳に届くだけでなく、体のうちから骨を伝って全身に浸透していくのだろう。

だからこそ、発する言葉には細心の注意を払わねばならない。口に出した言葉は、なかったことにはできない。そして、口に出したその言葉は、心に蓄積され、感情や思考を左右するものとなる。言葉が心を作る、とはまさにこういうことなのだろう。

私は心は健康優良児であると自負しているが、毎日毎朝毎晩「死にたい」などと声に出していれば、いずれは病む時が来るのだろう。

また、自分を必要以上に卑下することもないが、癖になっている「謙遜」は程度を弁える必要がある気がしている。仕事の中でならともかく、実生活での謙遜で生むものはない。

寺子屋で行われていた四書五経の素読なんていうのは実に理にかなったことで、意味もわからずに幾度となく誦じているうちに、自らの血肉となっていたのだと思う。

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日本語は文学だけでなく、理数の研究にも大変有利だという話を聞いた。曖昧な表現を指摘される日本語だが、日本語特有の含みを持たせる表現が、思考の幅を広げ、創造・発想の飛躍を許してくれるのだという。

もちろん仕事の上で曖昧な言動は、他の人間の逆鱗に触れるに違いない。だからこそ「はっきりしない」というのは、多くの場合で否定の意味で用いられる。

しかし、生活の中では曖昧なままにとどめておいたほうがいいことも、多く存在するのではないかと思う。

ポジティブなことはいいとしても、ネガティブな感情は殊更、無闇矢鱈に声に出し、形をつけるべきではない。

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ある評論家が「泣くなんていう簡単な方法で、思考を止めるべきではない」ということを言っていた。

もちろん「泣きたくて泣いているわけではない」という声や、「泣くことで感情を出す」という必要がある人もいるかもしれないが、それはそれとして。

それでも、納得できる答えを出したいのであれば、負の感情は曖昧なままにとどめて、事実を見つめ直すべきだな、と思った。

声に出す時は「思考を左右する」、泣く時は「思考を止めている」という認識をもって。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。