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凝り固まっているのは思考ではなく…
父の原稿の校閲をした。
今回で3度目となる父の書籍は全て、私も校閲をしている。
書籍だけでなく、趣味のように論文を書く父。
しかし、文章においてはド素人なので、編集者や投稿先に送る前にチェックをするのが恒例となった。
もちろん私もプロではないが、大学や大学院で文章については多少学んできたので、父よりはいくらかマシといったところである。
また、父のお金で勉強もさせてもらったので、その知識を父に還元できて良かった。
父の専門…というか、系統というか…。
とにかく、その分野においては「やや強めの主張」が行われているように思う。
これは父だけでなく、同分野の書籍や記事を見ても、その傾向にある。
そして父の書く文章は「であるべき」とか「なのである」「なのだ」とか、ある一定の語尾が乱用されている。
5文連続で文末が「である」締めていた文章の時はどうしようかと思ったけど、そういうものを直しつつも、やはり内容が気になって仕方がなかった。
父の思考は凝り固まっているように思えた。
・・・
オーストラリアの先住民・アボリジニの一族であるクウク・サアヨッレ族が使う言語の中には、「右左」などの方向を表す言葉がないらしい。
その代わりに全ての位置関係を「東西南北」で表現するという話を聞いた。
面白いことに、私たちが一般に使うよりも遥かに方角についての話題も多く、その方角認知能力は尋常ではないという。
挨拶をしても「今日はどの方角へ?」「私は北北東に向かうよ」なんて会話は当たり前。
彼らは東の手でものを掴み、西北西に頭を抱えて物事を考える。
何かものを並べるときにも、北を向いていれば右から左、東を向いていれば奥から手前、南を向いていたら左から右へと、向いている方角によって並べる向きも変わる。
つまり自然の法則である太陽の移動方向、東から西へと並べるのだという。加えて「今どの方角を向いているか」ということを伝えずとも、この法則が正しく行われる。
とんでもない能力だ。
これは、言語や使用している言葉によって、能力や思考に大きく影響を与えるのだと信じざるを得ない。
・・・
では、どんな言葉を使うべきか。
そんなことは重要ではなく、考える必要もない。
くだらない問いである。
それよりも「私の思考はどのような言葉によって行われているのか」という自問自答をすべきだろう。
どんな言葉が私の思考を作り上げているのか。
私が理想とする思考へと向かうためには、どんな言葉を使うべきなのか。
言語化が大切だというけれど、もちろん反論ないが、もっと言葉そのものの質にも目を向ける必要があると感じている。
父の文章を読んで「思考が凝り固まっているな」というのは、間違いではないが正確でもないように思う。
つまり、凝り固まっているのは「思考」ではなく、「言葉」なのではないかと。
今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。