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物語に存在する悪

久々にTVのドラえもんを観た。
長い間観ていなかったからドラえもんに対する尊敬の念が作り上げられたのか、それともたまたまそういう回だったのかは分からないが、なんとなく「ドラえもん」自身の変化を感じた。

もちろん声も変わったのだが、違和感を感じたのは声だけじゃない。

幼少期、もちろんアニメでも観ていたが、ドラえもんと言えば、夏休みに友人たちと暑さ凌ぎに通った公民館で読んだ漫画のドラえもんのイメージが強い。

漫画の中でのドラえもんは、多少のうっかりやお茶目なところはあれど、基本的にはのび太の成長を見守るべく、時に厳しく、時に優しく接している教師のようなイメージだ。

ドラえもんがのび太に語る言葉の中には、今思い出しても考えさせられるものが多い。

例えば、正しい方を助けなくちゃと「どちらが正しいか」に悩むのび太に対して、「どっちも自分が正しいと思っているよ 戦争なんてそんなものだよ」と、深刻げもなくサッパリと言っているシーンなんかは、とても印象に残っている。

訳あり気もなく、さらっと言うところも素晴らしいなと思う。強いメッセージこそ何気なく散りばめているところも、藤子・F・不二雄氏の素晴らしさかと。

しかし、昨日のアニメの中のドラえもんのイメージは教師どころか友達…とも言い難く、道具を出す便利なペット的な存在だった。助けるわけでもなく、頬を赤らめてコタツに入り、のび太の話なんぞほぼ聞いちゃいない。しかも出した道具も壊れていて…随分と人間らしくなったな、と。

「しょうがないなぁ、のび太くんたら。」と呆れつつも結局助けてあげるドラえもんが観たかったが、「んー?これでも使えばー?」とのび太と目も合わさずにたいした説明もなく道具を差し出していた。少し残念。

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海外では、ドラえもんは人気がないらしい。
認知はされているものの、その受容は各国で異なり、ぬいぐるみなども人気な国がある一方で、拒絶する国もあるという。

たとえばアメリカなんかは、拒絶した国の1つ。

困ったことや辛いことが立ちはだかったとき、なんでもすぐに助けてくれるドラえもんのような存在がいては、子供の自立心が養えないし、依存心を克服できない子に育つという考えを持った多くいるからとのこと。今は放映されているものの、内容をかなり変えているらしい。

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子供に何を見せるかという議論は、未だに平行線である。

例えば『泣いた赤おに』の作者・浜田廣介は1,000編にも及ぶ児童文学作品を残したのだが、そのすべてに「悪」の要素が全く登場しない。

これに異を唱える人がいる。

子供は『桃太郎』の鬼、『シンデレラ』の継母・姉妹、『アンパンマン』のバイキンマン等、童話や絵本の中には主人公に対する悪というものが存在して、その対比から学ぶものというものがあるのだと。

ドラえもんでいうと悪は誰なのか。
ジャイアン・スネ夫とも考えられるし、のび太ということも納得できる。アメリカ的に考えれば…ドラちゃんなのかもしれない。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。