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忘却という名の勝手な断捨離

どうでもいい経験も忘れられないことがある。
一生忘れない…と強く心に決めたはずなのに、何を忘れたくなかったのかが思い出せないこともある。

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私は非常に忘れっぽい。勉強における「暗記」はもちろん苦手。国語・数学は得意で、理科・社会・英語が苦手だったことがその証明のように思える。

また過去の出来事も、周りに比べて忘れていることが多い。旧友と集まり、思い出話に花を咲かせている時にも、1人だけ「そんなことあっただろうか」と首を傾げることも少なくない。

周りからは「本当に覚えていないのか」「忘れる程度の思い出なのか」と咎められることもある。

そう言われたところで、思い出せないものは思い出せない。

塾講師時代に「短期記憶ではなく、長期記憶にするためには最低1ヶ月は必要」という話を聞いたことがある。

専門家ではないので、難しいことは分からないが、外部から得た情報は、海馬という脳の領域に一時滞在をする。その後、知らないうちに断捨離が行われ、必要だと選ばれた情報が大脳皮質へ引っ越しをし、記憶となるらしい。

その一時滞在が許されるリミットが1ヶ月とのこと。

また、人によって「経験」に強く紐づく人もいれば、「感情」に影響され紐づく人と分かれるという話を聞き、勉強法へ活かした。

私は国語を担当していたので、古典単元も扱う。古典は音韻やリズムをつかむために、作品を暗記するよう子供たちに課していた。その際は、それぞれの特性を基に暗記法を変えた。

経験に紐づくだろうと思える子には、歩きながら暗唱をさせたり、未然・連用・終止・連体…という活用形も動作をつけて、より体を動かしながら。感情に紐づくと判断した子には、紙芝居のように場面ごとに簡単なイラストを描かせたり、現代語に置き換えるとどんな話になるかを考えさせたりと、より感性に働きかけるように。

そう考えると、私が友人と共有できなかった思い出は、経験にも感情にも引っかからなかったということなのだろうか。

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忘却の優先度は、どのようにして決まっていくのだろうか。
もちろんその答えは分からないが、今私が思うことは「何度思い出したか」が一つの指標だということ。

記憶の引き出しを開け、記憶を呼び戻し、咀嚼と反芻を繰り返し、また引き出しへ戻す。その回数に起因するんじゃないかと。

悲しい記憶や苦しい思い出が強く記憶に残るのは、体の中にある悪いものを外に出そうという人間の自己防衛本能が裏目に出て、吐き出しては無理やり飲み込むという作業を本人の意思とは関係のない生理現象のようなものなのかと。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。