葬式や卒業式で泣かないからって悲しくないわけじゃない。
友人が言う。
「私って、冷たい人間やねん」
「父親の葬式の時も泣けへんかってん」
「卒業式も泣けへんかったし、冷たい人間やわ」
と自分の事を言う。
そうかな~と私は思う。
私も父を亡くしたけど、葬式も卒業式も泣かなかった。
私は「なんか式という名のつくものでは泣かれへんわ」と友人に言った。
葬式は人の死を見送ると言いながら、一つの商売でもある。
裏では何にどれだけお金をかけるか計算し、感情を押しやり、数字が動く。
卒業式だって、盛り上がる演出をしている大人がいる。
卒業生の挨拶や、思い出を振り返る・・・
さあ、ここで泣きましょう的な選曲で一気に涙を誘う。
それが悪いわけじゃない。
多くの人は違和感を持たないし、自然に涙が出るのだろう。
しかし私のようなへそ曲がりで可愛げのない人間は、演出側の意図を感じた途端に興醒めてしまう。
つまり誰かの計算や思惑がチラッと見えると、反発したくなる気持ちが前に出てしまって悲しい感情が後ろへ下がってしまう。
誰かの意思に従わされるようで逆に「泣くもんか」と思ってしまう。
だから私は泣かない。
いや、泣けない。
泣かないからと言って冷たい人間でもないだろう。
何気ない日常の中で、ふと父の思い出が蘇った時や夢に父が現れた時は自然に泣いてしまう。
例えば、掃除機をかけていた手がふと止まる。
悲しみは自分でも気付かないうちに突然、静かに心を浸す。
また、ある時はテレビを見て号泣してしまう。
もちろん周りに誰もいない時にだけだ。
例えば『フランダースの犬』はネロが死んだ時よりも、おじいさんが死んだ時の方が切なくて号泣する。
ネロが死んだ時は才能を開花せぬまま、死んでしまって可哀想だと思うけど、やっと安らかに天国へ旅立って、お父さんやお母さんに再開すると思うと救われる。
でも、おじいさんの死は辛い。
ネロを残して死に行くおじいさんの心情を想像すると耐え難い。
無情な世に残されるネロの今後の苦労を知りつつも、もう守ってやる事ができないなんて・・・涙
少し脱線してしまったけど、私の言いたいことは誰の意思も思惑も感じない悲しみが純粋な悲しみで、それは一人の時じゃないと現れない。
一人の時にしみじみと体を浸す感情なのだと思う。
もちろん素直な人は葬式でも卒業式でも泣けるだろうけど、泣かないからと言って冷たい人でもないよと言う事だ。
そんな人もいると言う事だ。
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