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人は一人では生きられないのに、大勢だと生きづらくなる生き物。

18世紀のフランスの哲学者、ルソーは自然状態にある人間は高貴な精神を持っているが、その人間から邪悪なものを引き出すのが社会の制約だと言った。
ルソーの主張によれば人間は社会に属することで他人が持っているものを自分も欲しくなる。
人々は社会によって常に不満を覚え、嫉妬にかられ、貪欲で不幸な状態へ導かれる。
これは自然状態では存在しない状況だそうだ。


う~ん、ちょっと難しいけど分からなくもない。

まず自然状態というものが、具体的にどんな状態なのか分からないけど、社会に属していない状態なんだろう。

そこでは自由だけど完全な自己責任。

守られる事もなければ、他人との比較もないといった感じかな。


ウィキペディアで調べると自然状態とは政治体を構成しないバラバラの人間たちが生むであろう、人間間の様子とある。

逆に政治体を構成している人間たちは社会状態に入った人たちという事だそうだ。


どちらにも良い面、悪い面があるみたいだ。

社会に属すると他人との比較は避けられない。

だからルソーの言う通り、嫉妬や貪欲な不幸な状態の中で私たちは生きている。

生きづらい人が大勢いるのも必然な気がしてくる。


人は一人では生きられない。

なのに大勢の中だと生きづらいという矛盾を抱えた生き物だと思う。

自然状態で生きたいが、そんな根性もないし、既に社会の中で産まれてしまっている。

私たちは、もう社会の中で生きていくしかない。


更にルソーは言っている。

社会契約に入ることで、人は自分が持って生まれた自然状態の自由を手放し、それと異なる種類の自由と交換しなければならない。
残念ながら既存の社会は全て、人々が望む自由を与えることなく彼らを奴隷にしていると。


ルソーが生きた時代は18世紀とはいえ、現代にも通ずる気がする。

私たちは生きづらく、社会の中で奴隷のようだと感じる時もある。

やはり持って生まれた自由を別の自由と交換したからなのか。

社会契約に入って得られた自由って、例えば衣・食・住(社会では最低限の生活を送る権利がある)だとすると、手放した自由は何だろう?

自由な精神や意思だろうか?

他人に囲まれた中で自由な精神と意思を維持するのは不可能だ。

他人の思考に影響され、流され、同調し、自分が分からなくなる。

つまり迷う。

結局のところ、社会の中にいるいじょう生きづらさは避けられないということだ。

そんな中で少しでも、自分らしく生きる模索をするしかないんだなと思う。



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