
私が芸術家を諦めるまでの話 2
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私が東京藝術大学に合格したことは親も相当嬉しかったらしい。
自腹でなんとかする予定だった学費も親が出してくれた。
そのうえ予備校時代のように月に6万円の仕送りをしてくれることになった。
仲が悪くなっていた弟も「すごいやん」と言ってくれた。
入学式に着ていけるようなキチンとした服がなかったので、手持ちのワンピースに古着のジャケットで出席したら、同席した母にすごく怒られた。
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大学院は全く空気が違った。
年齢の幅も広く、学校以外の経験を積んできた同級生がたくさんいた。
学部生のときは金銭的な理由からあまり飲み会に参加できず、深い付き合いの友人を作れなかったので、大学院ではたくさんの友人を作ることを決めた。
飲み会の幹事をかって出て、出席しやすい空気感を作って大人数で何度も集まった。
楽しかった。
それと同時にとても焦った。
友人たちが話している芸術の話には、私のわからない言葉が色々出てきた。
私が知らない単語を共通認識としてみんなが話していた。
これまで私が友人と熱く語りあってきた芸術論は、ひたすら自分の内面の葛藤や自分の内部を掘り下げたことを語り合い、共感しあうような自己満足の青臭いものだった。
大学院のメンバーは、時代ごとのアーティスト、教授たちの過去作品、今注目している展覧会や開催されている国などについて語り合っていた。
これまでの私は無自覚な天才に憧れ、そのつもりで振る舞い、多くの芸術作品について知ろうとしてこなかった。
「他の表現を知ってしまったら、知らない頃には戻れないから。なるべく知らないままで作りたい。」
知識を小馬鹿にして感覚に頼っていた自分の愚かさと恥に向き合うことになった。
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同級生たちは留学経験のある人も多く、英語が話せる人も多かった。
食堂で海外からの留学生たちと同席したとき、私だけ話に参加できなかった。
大学をいくつも出た友人や、社会人経験のある友人。
私が学部の頃に決死の想いで応募して落とされた賞を高校生のときに受賞していた友人。
既にコレクターがついている人や、有名な画廊やキュレーターと繋がりがある人も珍しくなかった。
友達として色々な話をして関係を深めていくなかで、どんどん自分の『何もなさ』が露わになっていった。
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さらに、私は作品について人に伝えるスキルも全くなかった。
過去作品についてや、今取り組んでいる作品の方向性について堂々とプレゼンをする同級生たちがみんな賢く立派に見えた。
私はいつもごまかすことしかできていなかった。
アーティストになりたいと思いながらも、アートの奥深さを知らず、知ろうともせず、ただごまかし続ける自分が情けなく、恥ずかしかった。
画塾で、予備校で、学部で「私が1番褒められた!」という思い出は全く慰めにならなかった。
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同級生たちの作品は見事で、語られたコンセプトにため息が出た。
それぞれの背景と、作品の関係に思いを馳せた。
それに対して、私は担当教授との面談で何を話していいのか毎回よくわからなくなっていた。
私には、こだわっている何かも、強い想いも、表現にかける気持ちもなかった。
ただ小手先でそれらしいモノをかたちにしているだけ。
くだらない私のことをわざわざアート作品にする必要が見当たらなかった。
同級生たちと違い、私の関心は常に「普通の女の子」と何も変わらなかった。
そして、関心がある物事にすら新たな何かを生み出せるほどの深く強い気持ちは抱けなかった。
なんとか拾い上げて作品にしようと一生懸命考えてみても、何も新しい驚きは感じられない。
凡人の私が思いつくようなものは、もうとっくに他の人たちが素晴らしい作品に仕上げている。
何の魅力も感じられない、特別な人間でない私。
この場所から一度逃げ出そう、そのために1年の休学をした。
尊敬できる大事な友達はたくさんできていた。
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休学した1年のうちに関西のアートイベントに参加して賞をとった。
芸大の外に出れば私は「才能ある若いアーティスト」として扱ってもらえた。
東京に戻ればまた『特別な人たち』に囲まれた凡人としての自分と向き合うことになる。
ぬるま湯でいい。居心地のいい場所に居たかった。
アトリエを借り、関西に留まることを決めた。
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その頃に夫と出会って一緒に住み始めた。
夫は少し有名なアーティストだった。
芸術専門の大学院まで進学している私と対照的に夫は芸術を学校で学んだことのない人間だった。
それでも何年もアーティストとして活躍し、たくさんの賞を取り、海外から招聘を受け、コレクターにも愛されていた。
受験だけを乗り越えて、ただ学歴だけを積み、自分が芸術に深い関心を持っていないことに気づいたばかりの私にとって夫は驚くべき存在だった。
努力とやり方で手に入る学歴と、作品への力は違う。
夫の作品の手伝いをしつつ、アトリエに通って自分の作品を作った。
手を動かすことが何かのヒントになるかもしれないと、完成を決めずにどんどん作っていった。
休学の1年の終わりに、アトリエで小さい個展を開いた。
個展を見て小さい雑誌がインタビューに来てくれたり、ネットに記事をあげてくれる人もいた。
それでも、本当は芸術に強い気持ちが持てない自分には気づいていた。
私には、表現したい切実な芯の部分がなかった。
細やかで美しく、中身のない作品に買い手はつかなかった。
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復学しても、拠点は関西においたままにした。
担当教授が海外に行ったため面談はスカイプで行われることになり、学校に通う必要がなくなったのが幸いした。
あの特別な人たちの輪のなかで、ひたすら自分の何もなさを見せつけられ続けるよりも「関西からわざわざ通ってきている人」という、少しだけ他の同級生と違うポジションで居たかった。
なんの意味がなくても。
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夫は文化庁の推薦でアメリカに1年滞在することになり、私ひとりで関西で暮らすことになった。
友人のツテで、使っていない元画廊に住まわせてもらえることになった。
風呂なし、家賃2万円。
家の半分を出発前に夫がアトリエに改造してくれた。
以前のアトリエは解約した。
新しい住処の周囲には不思議なアーティストがたくさん住んでいて、関西では珍しい「東京芸大の子」としてキャラクターが成立した。
その場所を離れれば珍しいだけで、大学院に戻れば私はただの凡人でしかない。
特別な人でいたい自分、現実はそうではない自分。
新しいアトリエでたまに手を動かした。
大学院の修了に向けて、ひとつ作品を仕上げればいいだけだった。
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修了の作品は、まぁまぁ評判が良かった。
以前借りていたアトリエの近くに住む職人さんに協力してもらい、1人では仕上げられない大作になった。
見た目の美しさと意味深な雰囲気に騙されて、SNSで修了展について検索すると「今回の修了展でよかった作品は唯一…」「〇〇の作品がすごく印象に残っている」と、並み居る同級生たちのなかで、私の作品をピックアップしてくれている人がたくさんいた。
中身がないことに気づいているのは私だけだった。
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芸術家になりたかった。
芸術に夢中になりたかった。
でも、私の興味や関心は芸術にはなかった。
それでも表現の手段は芸術しか知らなかった。
作品以外の表現方法がわからず、作品を作ることでしか自分を認められなかった。
大学院を修了してから私は作品を作らなくなった。
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修了式を終えて、関西に戻った。
就職はせずアルバイトに明け暮れ、夫が日本に帰ってきてくれる日を待った。
夫が作ってくれたアトリエのスペースには埃が積もった。
芸大生でもない、作品も作らない自分がどんどん嫌になった。
夫から「NYのアートはすごいよ。来た方がいいよ!NYを見たらサンフランシスコまで一緒に車で移動しよう。アメリカ横断だよ!」と誘われ、アルバイトを1ヶ月休んでアメリカに行った。
作品を作らなくていいというプレッシャーから解放された1ヶ月は最高だった。
知らない場所で、知らないものを見て、私は私でしかなかった。
夫とのアメリカ横断を終えて、私ひとり日本に戻った。
アルバイトの日々のなか、大学院の飲み会の連絡が来た。
お世話になった講師も参加するらしい。
懐かしい大事な友人たちと会う約束をたくさんして、新幹線で駆けつけた。
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飲み会では同級生たちが近況を色々と話してくれた。
海外の展覧会に参加が決まっている子や、地方のアートイベントに引っ張りだこの子もいた。就職して勤めている子もいた。
雑談のなかで講師が言った。
「アートなんて、世の中の本当に狭い狭い世界で、わざわざアートにこだわる必要なんてどこにもないのよ。
アートやってたって、アートの世界の人間にしか伝わらない。
世の中の大半の人間は、アートなんてどうでもいいんだよ。」
その言葉が少し刺さった。
作品を作らない私の世界は、それでも芸術に支配されていた。
講師の言う通りなら、私は狭い狭い世界の中にいるらしい。
芸術に興味が持てない私が、作品に仕上がるほど強い想いのない私が、狭い世界にこだわる必要はなさそうだ。
私は、自分が普通の人間だということを認めて、芸術にすがりつくのはやめてもいい。
2歳の自分との約束を、守り続けなくてもいい。
私は、芸術家を目指さなくてよくなった。
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夫がアメリカから帰ってきて、2人で住む家を探した。
それに合わせて親にきちんと夫を紹介した。
「いい加減ちゃんとした大人になろう」と覚悟を決めて、ハローワークに行ってWebデザインの職業訓練校に通った。
芸術以外のことをたくさん学んで、出来ることが増えた。
訓練校の終わり頃に妊娠が発覚し、夫と正式に籍を入れることにした。
妊娠中に新しくアカウントをとってTwitterを始め、出産と育児で発見した驚きを書き綴った。
外の世界では本当に、だれも芸術の話をしていなかった。
芸術の外の世界は広く、複雑だった。それぞれの考えや立場があり色々な人間がいることを体感した。
匿名の世界は気楽で、私が何者かである必要はなかった。
何者かであろうとも思わなくなった。
育児の現場で気づいたこと、夫婦関係の苦悩を140字で吐き出しているうちに私に関心を持ってくれる人が増えていった。
同時に、子育てを通してママ友がたくさんできて、自分の感覚と一般常識のズレをたくさん知った。
芸術の外の広い世界で私は自分の経歴を話す必要がなかった。
「どんな作品つくってるの?」が挨拶の世界とは全く違う。
評価を気にせず、出来事や気持ちを毎日たくさんの140字に込めた。
私が何を思って何を発言しようと、講評の時間が来ることはない。
匿名の世界で、私は私から解放された。
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Twitter以外の発信も試してみたいと、ブログを始めた。
職業訓練校で学んだことが大いに役に立った。
あれだけ必死で何年も学んできたデッサンの技術はインターネットには不要だった。
育児と両立しやすい仕事を家でしたいと思ってオンラインサロンに入り、今まで出会ったことのない人たちと友達になった。
世界はさらに広がり、芸術について思い悩む時間がなくなった。
たくさんの文章を眺め、自分の考えを発信することを続けた。
感じたことを言葉にして世界に放つ快感を知り、日々言葉にしていった。
普通の私が紡ぐ文章に興味を持ってくれる人がどんどん増えていった。
書きたいこと、伝えたいことがどんどん膨らんでいく。
悲しいほど中身のなかった私に、やっと生きる芯が見えてきた。
芸術に関わっていたころに渇望していた『伝えたいこと、表現する喜び』がやっと私から湧き出てきていた。
それに気づいたとき、私は他の表現手段をたくさん持っていた。
私の表現方法は、もう芸術作品だけではない。
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以上です。
大学院修了の展覧会以降、私はひとつも作品を作っていません。
夫と過ごしたアメリカでも作品の材料を購入しましたが、眠ったままになっています。
私がずっと取り組んできた作品は、言葉を扱った作品でした。
今から思えばあの頃から私はずっと自分の文章を綴ってはいたんです。
それを物質的な芸術作品にする、ということに囚われていました。
そして、人から評価されることに怯えていました。
私の作品に込められたたくさんの文章は、読むことができないようにしてありました。
読まれてしまえば、私に何もないことがバレてしまうから。
若さですね。
表現方法や発信の手段をたくさん持っている今は、私が普通の人間であることが逆に財産のように感じられます。
普通の人である私の興味関心に、同じような悩みをもつ方々が共感してくれるのがすごく嬉しい。
私は芸術を志す特別な人間である必要なんて全くなくて。
普通に、普通に化粧品や家電や安くて可愛い子供服について騒ぎ、夫婦の関係について考察し、子供への愛を語り文章にする。
『かざり』がいちばん私らしい姿です。
そしてさまざまな縁が重なって、今、私は表現に関わることを仕事のひとつにできています。
オンラインのイラストコミュニティというかたちで、培ってきたデッサン技術と芸術的な視点が浮かばれました。
東京の美術予備校での講評初日。自分のプライドを守るために、一瞬でなかったことにしてしまった高校3年間の努力。
これまで受けてきた作品に対する講評やアドバイス。
あらゆるものが、私のイラストコミュニティに生かされています。
表現方法は芸術じゃなくてもいい。
そして、芸術であってもいい。
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長い長い自分語りにお付き合いありがとうございました〜!