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人生の目的の先にある無との対峙note

【無との対峙前】人生の目的の発見

 「愛する人と一生を共にしたい」
「親しい仲間たちと仲良くやって生きたい」
「趣味に生きたい」「たくさんのお金が欲しい」
「楽して暮らしたい」「勉強したい」等、
すべての人生の目的は「何のため?」と言う手段的な問いから逃れることができません。愛する人と家庭を築くことも、何かを勉強することも、ビジネスでお金を稼ぐことも、友達と遊んだり動画を観てだらだらして怠けたり趣味に没頭することも結局、何のため?という問いが発せられ、つまりは手段的で、考え方によってはその何のため?が延々と続き、堂々巡りです。

例えば、人生に愛を求め、「結婚したい」としましょう。

それは「何のため?」

何のためかと訊かれると
その理由を一般的に答えるなら
「子孫を残すため」ではないでしょうか。

「子孫を残すのは何のため?」

「さらに子孫を残すため」
この理由だと以下、永遠に続く。

 やや前時代的かもしれませんが、結婚の歴史的な大本の目的は「子孫を残すこと」のはずです。ただ、結局このように不適切に手段的に理由をピックアップして考えると無限ループで堂々巡りです。

 違った考え方をしてみましょう。結婚したいのは別に子孫を残したいからではないですよね。それもありますが、そのためだけに結婚をする訳ではない。結婚したいと皆が思うのは、愛する人と一生を共にしたいからですよね。結婚はある種、子孫を残すと言う手段的な目的の部分はありますが、結婚そのものが幸せになるという目的ですよね。

 前提の問いと途中の考え方が間違っていなければ、結論の答えは適切になります。人生の目的の問いに適切に自問自答して行けば、人生の目的は必ず適切に見つかります。

 勉強やビジネス、遊ぶこと・怠けることも適切に考えれば無限ループにはなりません。最終的にそれ自体が目的になります。

「一般的に勉強するのは何のため?」

「良い学校に行くため」

「それは何のため?」

「良い会社に就職するため」

「その会社でビジネスをするは何のため?」

「お金を稼いで生活するため」(目的)

 最初に「一般的に勉強するのは何のため?」と"一般的"をつけましたが、
勉強はやはり手段的な部分を含みますが、その学問を追究したいから勉強するというその勉強自体が目的となる場合もあります。

 また、遊ぶことや趣味、怠けることは休み、リフレッシュするという手段的な部分も含みますが、それ自体が目的です。

 つまり、考え方によっては永続的に「何のため?」の問いと答えが永続的に続く場合もありますが、的を射て適切に考えるならば、手段的なこと・手段的な部分を含むことでも人生の目的になりうる訳です。

【無との対峙】すべては無であると気づく

 そうやって適切に考えて行って、何のため?を突き詰め、
最終的に人生の目的・やりたいこととしてそれらの総合的な結論が出たとしましょう。
人生の目的・やりたいことが決まったとしましょう。

 そこで、ここからがこのnoteの本題です。
"その人生の目的は客観的な意味がありますか?"

*結婚の幸せ
→それは個人的な話。社会的に意味は無い。博愛的に考えれば、お互い一生を共にする伴侶に出会えたことはすばらしいことだけれども、関係の無いまったくの他人から考えると「だから何?」となります。歴史に残って偉大な夫婦もいるけど、それは単に功績であるし、夫婦自体の意義ではない。(夫婦だったからこそ出せた成果ということもありえますが。) それにこれからは偉業を成し遂げなくても個人の公にできるデータがweb上に残って歴史に残ることも容易になるでしょうし。パートナーがいることはそれぞれにとっては意味があるが、大きな次元で考えると社会的・客観的に意味は無い。

*勉強の幸せ
→これも個人的な話。好きでしている勉強(研究)で功績を残せたら嬉しいだろうけど、功績はあくまでその結果、偶然的に生まれ認められたのであって、それは目的とする重要なものではなく、またそれは価値あるものかもしれないけど、本当に勉強すること自体が幸せな人は、功績よりもその学問そのものを愛し、幸せとするから、その話の主はやはり単なる個人的な好みの話であって、偉大な何かの話ではないでしょう。趣味や好きな食べ物と同じ次元の話です。趣味や好きな食べ物の話に大きな意味はありませんよね。

*高学歴や高収入の幸せ、趣味・遊び・怠ける幸せ
→高学歴や高収入は、他人にマウントは取れますが、これも全然関係のない他人からすれば「それが何?」となりますね。確かに物理的に楽な暮らしが送れる、アルバイトで100円でも時給が高いとだいぶ収入が違って来るように、他人より少しでも物理的に楽な暮らしを送れて遊び・怠けられる時間が多いことは確かに人生において考慮すべき要素の一つではあるけど、そこに何か大きな意味があるのかと言われるとやはりその生活は個人的なもので意味はありません。

では、偉大な何かを成し遂げればどうでしょうか?
 歴史上の人物を見ても生前・当時から高評価されている人はなかなかいません。またそもそも多くの人は偉大なものを適切に評価できる眼が無いですし、自身が神ごとき超越した視点・見識から偉大なことをしても一般に偉大だと評価されない場合もあります。また、具体的な偉大な功績の例として、発展途上国の飢餓や疾病を救う。衰退する国の経済を立て直す。それができたらすごいことですが、その救った人が何をするか、その国がその後何を為すかでその先の結果は無限ループですし、その後の国民の生活はやはり個人的なもので特に大きな意図を持ちません。それに国を立て直した人をどう思うかでしょうか。国民側であれば、救世主扱いし、心に名を刻みその国の歴史に残るようにするでしょう。本人にとってはとても光栄なことではあります。ですが、事実だけを見れば、多数の大きな感謝でしかありません。それを受けてどうするのでしょうか? 名は知られるが知られてどうするのでしょうか? それにその国を立て直した人を面白く思わない人は必ずいます。全員に良く思われることは不可能です。いったいどんな人に、何人に高評価されたら意味があるのでしょうか? 偉大な功績を挙げて認められれば、生活は豊かになる可能性は高いです。ですが、それでどうするのでしょうか? やはり無限ループです。それが目的なんだと言ってしまえばやはり個人的で意味はありません。

 このように、だいたいは手段的に無限ループしていて堂々巡りで意味が無いか、個人的なこと過ぎで意味が無いか、多くの人が評価しないから実質的に意味が無いかのどれか、もしくは複合的に当てはまって、結局、すべてに意味は無く、すべては無なのではないかと私は思います。

 月並な大きな言い方をすると、大宇宙からすればそう言った人々の一生など星の一瞬きに過ぎず、あるのだかないのだかわからない動いているのかもわからない認識されない空気中のチリ同然です。

 ですから、人生の目的を突き詰めて行った結果にあるのは『無』なのだと筆者は考えます。

【無との対峙のさらに先】では、どうしたら良いのか?

 何をやっても無で意味が無いのですから、社会に迷惑をかけないようにしつつ周りと上手くやって、やりたいことをやりたいようにやって自分自身のために楽しく生きればいいんじゃないでしょうか。幸い、そういう人がビジネスのきっかけを作って稼ぎやすい時代でもありますし、役に立たない娯楽がビジネスとして成り立って役に立つことも多いです。そうやって明るく上手く生きていることが、下手げに誰かを助けようとするよりも実質の社会貢献になったりもします。

 人生、何をやっても無意味なのならば、その無を理解し、受け入れて
何かのため、誰かのためと手段的に生きるのはやめて、自分のために生きたいように生きましょう!そうすれば、意味は無くとも納得の行く人生を歩めるはずです。

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