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学校が「今の社会」とつながっている今こそ、変化の時なのかも?:学校と「小さな経済圏」の親和性③

前回の記事では、「クリプトークンエコノミー」という未知の社会を生み出していくうえで、本来は「次の社会」を生み出す力を持っている「学校」や「教育」が果たすべき役割は大きいんじゃないかなということを、近代学校の成り立ちを交えながら考えてみました。

今回はここまでの話を発展させて、「学校」がなぜ本来持っているはずの役割を果たすことができないでいるのか、なぜ、「次の社会」を生み出す力を発揮できずにいるのかということについて、少し考えてみたいと思います。

今の学校が直面する課題がどのような背景を持つものなのかということについて考えると、その課題を解決するためには何が必要なのかが見えてくると思うし、そこから「教育×クリプトークンエコノミー」に期待するものが描けるかなと思っているので、もう少し教育の話にお付き合いいただければ嬉しいです。

(ちなみに、「クリプトークンエコノミー(Cryptoken Economy)」という言葉を当たり前のように使っていますが、これは世界的ハッカー&ラッパーの億ラビットくんさんが生み出した言葉です。詳細は以下の記事をご覧ください)

前回の記事で、明治期から始まった日本の「近代教育」は、当時の日本社会には存在していなかった「近代国家」や「国民」を生み出す役割を担う形で始められたということを書きました。

これは「国家」や「国民」というものが存在しない時代のなかで、「社会的ニーズ」のないものを生み出していく役割を日本の「近代教育」と、その実際の現場である「近代学校」は担うことになったということを意味しています。

大きな役割を期待されていた日本の「近代教育」や「近代学校」は、社会制度の近代化と歩調を合わせながら、同時に、その近代化の進展がまさに近代教育が果たした「成果」として位置づけられながら、だいたい1910年ごろには「日本」という「国家」や「日本人」という「国民」の創出を、ある程度達成するに至ります。

もちろん、ここで「ある程度」と注釈したように、この「達成」は暫定的なものでしかありません。

「国家」や「国民」という均質性の高い組織や集団がある程度形成されるようになってくると、相対的にそうした枠組みから漏れ落ちる地域や人々そうした枠組みでは包摂できない地域や人々の存在が、よりクローズアップされるようになってきます。

たとえば、日本は1895(明治28)年台湾を新たな領土、植民地として領有することになりましたが、日本にとっての「新領土」である台湾にこれまで住んでいた人々をどのように位置づけるかということは、容易に解決できる課題ではありませんでした。

言葉も思考様式もライフスタイルも異なる台湾の人々を、日本という「国家」を支える「国民」として育てるかどうか…

これは1895年以降、日本の植民地統治が直面し続けることになる大きな課題でした。

ここで注目したいのは、この1895年というのは、日本の「国家」・「国民」創出がまさに進んでいた時代だったということです。

1888年に市制・町村制公布、1889年に大日本帝国憲法公布、1890年帝国議会開会という形で近代国家制度の整備が進んでいました。

また、1890年からドイツに留学していた上田万年が1894年に帰国し、「国語」の創出に取り組み出す時代でもありました。

これはつまり、明治時代が始まって30年が経とうというこの時代には、「国家」や「国民」の創出というトピックは、すでに一定の「社会的ニーズ」を形成していたということを意味します。

それまで社会のなかに存在していなかった「国家」や「国民」を、「近代教育」を通じて生み出すことを目指してきたわけですから、その結果としてこうした「社会的ニーズ」が生み出されてきたことは喜ばしいことだといえるかもしれません。

ただ、同時に、このことは教育自身が担うべき役割を変化させていくことにもつながっていきます。

このあたりから教育は、未知のものを生み出していく拠点としての機能を果たすのではなく、既にあるものを増幅させていく装置としての役割を果たしていくようになっていきます。

国民教化装置としての教育」という表現がよく使われるように、既に出来上がったものとしての「国家」や「国民」というものを人々に「教化」する、つまり、人々を既存の枠組みのなかに誘っていくような役割を、教育は担うことになります。

ここから、教育が「今の社会」と抜き差しがたく結びついているというイメージは、本来は教育自身が自らの課題として取り組み、その結果として生み出したはずの「社会的ニーズ」に、自らが取り込まれていくプロセスの延長線上に生じた事態だと考えることができます。

言いかえれば、教育を通じて目指されていた「次の社会」が、その実現によって「今の社会」となると、教育は自然とその「今の社会」と結びつくことになるということなのかもしれません。

教育が「今の社会」との結びつきを強めるというのは、かつて目指されていた「次の社会」がそれだけ実現したという意味では喜ばしいことなのかもしれませんが、その分、教育が果たすべき元々の役割からは外れてしまったということを意味しているともいえます。

日本の近代教育はこうした形で「今の社会」との結びつきを強めていったと考えることができるのですが、実は一度、この結びつきが解消されたタイミングがありました。

それは、1945年の日本の敗戦を契機とする「戦後教育」改革の始まりです。

GHQの占領統治下で展開された戦後教育の構築をめぐっては、いろいろとセンシティブな議論がありますが、本論から議論がずれると困るので、ここでは詳細な中身には立ち入りません。

ただ、日本の近代教育の流れのなかで考えると、このタイミングでまた、それまでの社会のありかたとは異なる「次の社会」を生み出していこうとする役割を、教育が担う側面が強く打ち出されることになったのだろうと思います。

九年制義務教育の実現にともなう新制中学校の設置と、その中学校での「社会」科の新設(いずれも1947年4月)は、その当時、「新しい教育の精神は、社会科のうちに集中的に表現せられている」と言われたように、「新しい教育」で生み出される「次の社会」の形を示すものとして実施されたといえます。

ここにまた、教育が「社会的ニーズ」の存在しない「次の社会」を生み出していく役割を担う状況が生じたということができます。

とはいえ、先に触れたように、明治期にあってはおよそ30年ほどで教育と「今の社会」との結びつきが強まっていったように、戦後の教育もまた、敗戦から30年ほど経った1970年代ごろには改めて、「今の社会」との結びつきを強めるようになっていきます。

時代的な背景としては1960年代からはじまる「高度経済成長」に即して、経済成長を支える人材養成という役割を教育に期待する声が、経済界を中心に高まっていきます。

そうした声に対応する形で、大学の専門教育の充実高等専門学校の設置、職業高校の拡充や短期大学の恒久化などが進められていきました。

こうした教育環境の整備は、教育機会の拡大という意味では喜ばしいことではありましたが、同時に、教育が「今の社会」と分かちがたく結びついていることを典型的に示しているともいえます。

教育と社会との距離感は、日本の「近代教育」から「戦後教育」のなかで、同じ動きを繰り返してきたのかなと思います。

たとえば、思想家の内田樹さんは「教育は惰性の強い制度」と常々指摘されています。

これは決してネガティブな意味ではなく、経済学者の宇沢弘文さんの「社会的共通資本」という考え方をもとに、社会の成立を根本から支えているインフラのひとつである教育の特性だと位置づけられています。

教育はそう簡単には変わらない、というよりも、社会が成立するためには簡単に変わってはいけない社会制度のひとつだということですね。

そうした教育が変わるとすれば、時代の節目…たとえば、「近世から近代へ」、「戦前から戦後へ」といったようなタイミングが必要なのかもしれませんが…

この記事にまとめた近代教育史の流れを見れば、教育は本来「次の社会」を生み出すという役割を持っているのですが、「惰性が強い」がゆえに、「次の社会」が少しずつ実現されて「今の社会」になっていく過程のなかで「新しい教育」が生み出されることは難しいのかもしれません。

ただ、同時に、これまでの日本の教育をめぐる動きは、教育と「今の社会」との結びつきが強くなった時に「新しい教育」が生まれてくることもまた、示しているともいえます。

そういう意味で今の教育は、想像もしない形で「次の社会」を生み出すものへと変わっていく直前まで来ている…のかもしれないなと思います。

「次の社会」を生み出す教育は「想像もしない形」で再編されるということは、今から発想できるような枠組みには収まらない、僕のような人間には発送できないものなのかもしれません。

けれど、だからこそ、今では突拍子もない「妄想」に見えるようなことも、もしかしたら「新しい教育」へとつながっていく可能性もあるということじゃないのかなと思います。

それは裏返していえば、それだけのポテンシャルを教育は持っているということなのではないのかな…と感じます。

教育×クリプトークンエコノミー」という発想は、僕のなかでは今のところ「妄想」に位置するものなのですが、だからこそ、「新しい教育」のあるべき姿となりうる可能性を持っていると想像しています。

ですが、こうした発想は何も理由のない単なる「絵に描いた餅」だとは思っていません。

実はこうした類いの「妄想」は、これまでの日本の教育のなかでも、ことあるごとに実践が試みられてきました。

次回はそうした実践のなかから、「教育×クリプトークンエコノミー」につながるようなヒントを得るようなことを書きたいと思います。

まだ「クリプトークンエコノミー」と直接関わるような内容にならず、このままでは単に「クリプトークンエコノミー」って言いたいだけの、流行り(?)に乗っているだけの人に見えるかもしれません。

それは、平に謝ります。ごめんなさいm(_ _)m

ですが、教育に関わりがなさそうな「クリプトークンエコノミー」というトピックが「実は教育に関係があるんだ!」ということを言うためには、教育学を専門にしていると自称している人間が、教育学的な知見からどのようにこれを捉えるのかということを、なんとか整理してまとめる必要があるのかなと思っています。

それは未知の作業であるので、言葉をどう紡いでいけば良いのかということを模索しながら記事を書いています。

でも、だからこそ、教育にとっても、「クリプト」にとっても、新たな知見を加えることになるだろうと信じています。

ですので、話はまだまだ長くなると思いますが、少しでも興味を持ってもらえたら、「教育×クリプトークンエコノミー」の模索の過程にもう少し末長くお付き合いいただければ嬉しいです。

どうぞよろしくお願い致します。