#28 「普通」の呪いと解放について
普通という言葉には、人を捕らえてしまう普遍的な意味があるのかもしれません。(普通の辞書的な意味は以下。)
いつ、どこにでもあるような、ありふれたものであること。他と特に異なる性質を持ってはいないさま。
しかし人はひとりひとり圧倒的に違うので、普通の人など、一人もいないのです。
「普通の人」という言葉は、人のことをひとりひとり見ていないと感じます。
普通になりたいと願ったとしても、それは叶わぬ願いなのです。どれだけ努力しても誰かと同じになることは出来ず、あなたの持つ個性はだれとも違うのです。
普通は嫌だ。
尖りが欲しい。
個性的でありたい。
そうした声を聞いたことがあります。
でもどうか安心してほしいのです。
あなたは何もしなくても普通ではないし、他の人とは圧倒的に違うし、尖りもあるし、個性的であるから。
今までの教育や社会は、個性や尖りを巧妙に隠していたのかもしれません。
平均との比較。
他人との優劣。
勝負での勝敗。
ある一軸での評価なのに、自分の全存在が懸けられているかのように感じてしまう。
その評価の呪縛は、個性を殺し、尖りを削り、普通との距離でしか自分を測れなくなります。
時間の流れだったり頼り先の確保だったり自立だったりで、呪縛からの解放は少しずつ進んでいきます。ある地点に到達すると、突然見える景色が変わります。
なぜ自分はこんなに偏っていたのか
こんなにも小さな事で悩んでいたのか
すごく重要なことに気づいてしまった
残念ながら、その奇跡の体験は他人に共有することは難しく、体験しなければわからない類のものです。でもそうしたこともあるという知識の共有はできます。
自分の周りに普通でいることに悩んでいる人がいたら、「大丈夫、君は全然普通じゃないよ。他のだれとも違う、君だよ。」と声をかけてあげてほしいのです。
自分の周りの人に「あなたはあなたでしかない。そのままでいい。自信を持って。」と言える人でありたい。
それでは、また。
2019年7月28日
東京・浅草にて
最後まで読んでいただきありがとうございます。