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6月17日(月)
先週の日記を書いてから、あっという間に今週の日記を書く時間がやってきた。日々が充実している証なのか、怠惰な証拠なのか、どうなんだろうか、わからない。
先週のnoteが一週間で50スキを超えた(日記noteでは初めて)。
この日記の感想をもらったりシェアされたりすることはごくまれ(大歓迎ですよ… )だが、毎回読んでいる人を認識できるくらいには、遠くて薄くて長い関係性ができている。
いわゆる読まれるnoteの文体ではない(タイトルはキャッチーではない、見出しもない、改行なしで書き続けることもある)。それでも読んでくれる人の存在は書き続けていくためにはとても大きい。言葉がない。
ただ、読む人を意識したり前回読まれたから今回も読まれるだろうかなどと考えたりすることに良いことは一つもないので、これから淡々と書いていく。一周年経ったら振り返りをしてみてもいいかもしれない。
クラフトビールをこつこつ飲んでる。この中だと、hop campが好きだった。
こつこつとクラフトビールを飲むようにしている pic.twitter.com/5uroTn0eRl
— ひらやま (@hrkzkrh) June 13, 2024
ほどよくフルーティでほどよく苦いのがいいんだよな(わがまま)。今度おざぶでクラフトビールを飲み比べる会をやるので楽しみにしている。
自分が自分であるために戦わなければいけないタイミングがある。が、できることなら戦いたくない。が、戦いを避けられる前提とするのは強者の理論でもある。状況を操作できる力があればいいが、そうでなければすでに渦中に放り込まれてしまう。戦いたくて戦っている人など、一部の狂人を除いて、いないだろう。であるなら、戦いという選択肢を無理になくす必要もないと思える。
わたしがわたしであるために、あなたがあなたであるために、戦わなければいけない時には、力の限り戦った方がよい。なんのために戦うのか、ということが大切になるのだろう。
上の話は極端だが、ある概念から一部分をまるっと削り取ることは難しい。無限の感情が渦巻く人間から、悲しみだけを取り去ったり苦しみだけを消し去ったりすることはできない。どんな望ましい状況でも悲しみや苦しみはある程度は残る、と覚悟しているくらいがちょうどよい。都度思い出した時に覚悟しないと、すぐにうぬぼれてしまうから、こうやって書き綴っている。
ひらやまの実家は農業を営んでいるが、今年もブルーベリーの季節がやってきた。
平山実家のおいしいブルーベリーを入荷したので欲しい方はお声がけくださいませ pic.twitter.com/CSRqAji7yi
— ひらやま (@hrkzkrh) June 14, 2024
店舗に直卸することもある品質のもので、手前味噌ながらとてもおいしい。生のままぱくぱく食べてもいいし、冷凍してデザートにしてもいい。カロリーも低いのでおやつにも向いてる。
精神を成熟させることを重要視している。精神というものの定義と成熟というものの定義は、ぼんやりさせている。はっきりするものでもないだろう。物理的な充足、肉体的な充足ではない、くらいの意味合いしかないかもしれない。
そして辿り着けずともよい、正しい方向に向かえていればよい、とも思っている。そもそも辿り着けるものではないので、正しい方向に向かえていると感じるのなら、もうすでに辿り着いているのかもしれない。
「辿り着かないものを目指して進む」ことは、生きることと死ぬことの関係と同じだ。生きている限り、生きることしかできない。死の瞬間まで生きるが、死を感じることはできない(感じる主体が失われるから)。
なので、正しい方向に向かうこと、向かい進むことそのものが、そのままいま生きていることの実感につながる。ような気がしている。いま生きることを続けていく、それしかできない。
「受け取ることから始めていいんだ」と信じられた時、「何かを生み出せない者に価値はない」と思い込んでいた心が軽くなった。
6月末で会期を終える展覧会がいくつかある。行くぞ行くぞ行くぞ、と心に誓う。展覧会を見るのは体力を使うことなので、そのための体力をつけたいなと思い始めている。ランニング、再開するかな。
noteもくもく会改め、「おざぶでゆるり」という会をやってみようと思う。
和室でおしゃべりしたり、洋室でもくもく作業したり、銭湯上がりにビール飲んだり。どういう形でおざぶを開いていく(オープンスペース的な意味で)のがよいのか、ちょうどよい形を模索中。
詩をこつこつと書いている。午前中、おざぶにいる時間、移動中、お風呂の中、寝る前などなど、まとまった時間もすきま時間も使っている。
雑誌への投稿も始めて、つくったもののうちすべてを公開できているわけではない(雑誌に投稿できるものは未発表の作品のみのため)が、少し追加されたので、よかったら見てもらえたら嬉しい。
詩を書くことは、自己実現ではない。人生の結実として、詩が存在する。自分の人生で、美しい詩が一つでも生まれたら、もうそれで十分な気がする。少なくてもいまはそう感じている。
最後まで読んでいただきありがとうございます。