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6月10日(月)

先日、祖母と母が東京に来たので、sigmafp片手にカメラマンやってた。撮りがいがあって楽しかった。


長く文章を書いている人の文章を読むのは心地がよい。その人の文体が滲む。その人の文体を読むために文章を読んでいる。自分が文章を書き始めて5年程度しか経っていないことを思い返し、まだまだ未熟であることを知る。何十年経っても同じようなことを考えていそうではある。


人が輝くとはどういうことか。その人がその人らしさを発揮している。その人らしさがわたしから見えないこともあるが、本人がそう思っていること。いま生きていることを確かに感じながら、生活すること、仕事すること、生きること。そのすべてなのだろう。


あまりにも自然に流されてしまうので、流されている状態こそが真実なのではないかと錯覚する。が、それは錯覚させられているだけだ。他の誰でもないあなたが(またはわたしが)他の誰とも変わらぬ生き方がそのまま当てはまるはずはない。型にはまるためにあなたを、あなたの最も大切なものを変えてはいけない。

日々の中には流されてしまうことも型にはまってしまうこともある。それはそれでしょうがない、それはそれで楽しい、なぜならあなたを魅了するための進化を遂げ続けている終着を味わっているのだから。ただ、その誰かがつくってくれた享楽があなたの本質たり得ることはないのだろうとも思う。

「いまを生きることが大切だとわかってるけど、現実そうもいかない」と言う人は、順番を変えなければいけない。いまを生きることから、始めなければたどり着けない場所がある。未来、何かが起きて異なる道に入れるかもしれないが。


短いnoteを書いた。

noteをはじめ、SNS更新でしかその人の存在を確認できない人がいる。好きな作家、近くはない知人、離れてしまった友人などなど。その人たちとうっすらとしたつながりを保つことができるのが、SNSの良さの一つだと思う。



「この世はクソ」と「眩暈がするほど美しい世界」を行ったり来たりしている。夜、嫌気がさして絶望して、あああああああと唸って、眠る。朝、窓枠に収まる青空を掴もうとして手を伸ばす。その繰り返しだ。

危うさを全面に出したいわけではないが、こういうことばかり考えているから、さまざまな断面で表現されてしまう。行ったり来たりすること、わたしとあなた、言葉と言葉の手前、青空と夕焼けのグラデーション、生きることと死ぬこと、それらの間、そういうことばかり考えている。


自分が最も大切にしているものから自分が大切にされなくなった時、それを手放したりそれから離れたりする自分でいたい。最も大切な価値観が否定されても、次の自らの価値観たり得る何かを模索したい。過去何度かのコペルニクス的転回のような価値観の変化を経験していると、これからもそれがいつか起きるのだろうと予感せずにはいられない。逃れられない自らの宿命のの一つなのだろうと覚悟している。未来は私の手の中にはない、覚悟することしかできない。


半分くらい読んでも、どれもおもしろい。

友情の意味、友人関係への過度な期待、家族や恋人との対比などなど、多様な角度から友情・友人関係が論じられている。関係性というものに興味がある人にはおすすめ。


5月よりは頻度を落としつつ、来た人と雑談するスペースを続けている。

匿名で聞く人もいるらしく、こちらから見えない人も含めると、40人以上が聞いてくれることもあるようだ(どういうカウントになっているかわからないが)。

数を試してみて、スピーカーが2人(自分と誰か)の時と3人以上の時とで場の雰囲気が変わることに気づいた。

一人と話す時は、開放的なカフェで話す時に近い。話し声は周りに聞こえてしまうけど、相手とゆっくりやりとりできる。そこだから話せることもあるだろう。みんなでわいわいする時は、オープンスペース(おざぶのような)での飲み会のよう。参加する人と人数で、話題も展開も勢いも異なる。知らない人がふらっと入ることもできるだろう。

それぞれに良さがあるので、それぞれの回ごとに分けてみようかなと思った。


雑談企画、公開したときにわっと来て以降も、毎週一件ずつくらい申し込みをもらっていて嬉しい。お気軽にどうぞどうぞ。



最後まで読んでいただきありがとうございます。