見出し画像

厳しさに憧れていた自分へ

自分が尊敬する人たちに共通することがあるとすると、その一つに「厳しさ」があります。

高校の部活の先生も前職の上長もいま近くにいるすてきな人たちにも、大なり小なり厳しさを持ち合わせていました。

いまでも彼らの厳しさがとてもすきなのですが、そこにはいくつかの理由があったことに気づきました。

1. 魂を込めたこだわりがある

ときには意味がわからないくらい、細かさやコミットメントを要求されることがありました。

「この場面で大切にすることは一つしかない。」
「この言葉を使ったのはどうして?メリットデメリットと他の候補は?」
「最高のパターンと最低のパターン、その真ん中のプランは?」

こだわりの全容がわからない間は、ただただひらすらに理不尽なようにも思えるのですが、その奥には圧倒的な経験と知識に裏打ちされた哲学がありました。

誰に否定されても世の中の流れが真逆だとしても、信じるものを貫き通す鉄の意志に尊敬の念を抱いてやみません。

2. 人の成長を長期的に見てくれる

高校の先生も前職の上長も、人への目線がとにかく長かったことが印象的です。

目の前のことだけに囚われるのではなく、常にその次、その次の次まで思考が及んでいました。

「いま教えていることが将来役に立つ確信がある。そうなるようにやる。」
「ミスしてもいい。けど同じミスを二度としないように気をつけなさい。」

今は未来の手前であり、どのにつながっているかを徹底的に思考し、丁寧に教えてくれる方々でした。

「どうしてこんなに怒られなければいけないのか?」と疑問に思うことがありましたが、それは長期的な目線をもった上での愛のある指摘だったのだと、いまならわかります。

いまの自分は彼らにもらった言葉で形つくられているなと、心から感謝をしています。

3. 厳しさの先により良い未来を見ている

厳しさの目線の先には、常にいまより少しだけよい未来がありました。そこに近づくために、目の前のことを突き詰めたり足りないことを補完しようとしていました。

きっと本人たちに「どうしてそんなに厳しいのですか?」と聞いても素知らぬ顔をすることでしょう。

理想のためには必要だからやる

その一点を元にしてすべての行動がなされており、「厳しくあらねば」とような気持ちもなかったように感じます。一途で真摯なスタンスそのものに、心惹かれてしまいます。

彼らの背中を追いかけて、追い越してゆく

自分は人の運にはとても恵まれていた自覚がありました。自分に関わってくれた人の中で恨んでいるような人は、ほとんどいません。彼らからもらった言葉や哲学をいまも大切にしています。

ただ憧れているだけでは、彼らと同じ景色を見ることができないということも最近になってようやくわかってきました。

肩を並べて歩くには彼らとは異なる自分の目線から、自分たちが納得できる未来を自分で描かなくてはいけません。

ただ憧れているだけになっていないか?
目指すものに近づくための行動ができているか?
過去と今、そして未来を大切にできているか?
こだわりや哲学を持てているか?
厳しさと愛を両立できているか?

やらなきゃいけないことはたくさんあります。その一つ一つを楽しみながら自由に乗り越えていきたい。

昔恩師だった人と一緒に仕事ができるような
いまいる人たちとだからできるような
みんなが心からわくわくするような

自分個人でも、cotreeでも、そんな未来に向かって一歩一歩進んでいきたいのです。厳しさとやさしさを両の手に携えながら。

TOP写真は、沖縄の波照間島。あの夏に色々なものを置いてきた気がする。


最後まで読んでいただきありがとうございます。