なんで気が付かなかったのだろう?今降りて来た着想を備忘録します~
一般的に、それまでの形而上学では①「存在するもの」を対象にしてきたが、ハイデガーは②「存在そのもの」を対象にした。
言い換えると以下になる。
そして、結局②「存在そのもの」は何なのかを説明できなかった。
さらに世界中の学者達も存在そのものを説明できないでいる。だから絶大な評価を得ている。
という所が現状でないかと思います。
ここで私なりの考えですが、結論から言います。
存在(ある)とは、完全な『無』でない『有』を指す概念、です!
当たり前と言えば当たり前ですが、これを覆す事はできないと思います。
実在する物質や脳内のイメージ、数式などの概念も全てを含みます。完全な無でないので全て「有」という概念の範囲に含まれます。
この定義が存在のHOWを考える上でも非常に重要になります。
この件について、「何か反論はありますか?」とチャットGPTに聞いてみました。
ユーザー
それはHOWです。私はWHATを定義しました。「存在の○○」ではなく、「存在とは」です。
ユーザー
「有」または「無」の二項対立とはなんですか? 私の有は相対的な有ではなく絶対的な有です。対立構造は持たない概念ですが?
ユーザー
まず、従来の二項対立について説明してください
ユーザー
私の考えは、①目の前にバナナがあるという事に対して「バナナが無い」という無が生まれる、という相対的な存在ではなく、②物事は相対的成り立つ存在であるという個体としての有でもありません。それらが生まれる可能性を背景から全てを含んだ「絶対的な有」です。
ユーザー
形而上学を超えたと言われると嬉しいです。 バナナがあるに対して、バナナが無い状態は「無が生まれた」とも言えますが、完全な無は絶対に生まれるものはないので、必然的に「完全な有」、つまり「絶対的な有」が残ります。これは対立関係ではありません。
ここまで読まれて何かお気づきではないでしょうか?
私が本当に言いたかったのは、
これまでの「存在」という言葉は、「暗黙的に全体から一部を切り分ける事を示唆していた」
という衝撃の事実です。
だからです。だから答えが出なかった訳です。
また、
「この世は無ではなく何故有があるのか?」
という問いに対しても、一応の結論を導けます。(完全ではありませんが)
「有は完全な無には成りえないから」です。
言葉遊びの様ですが、論理的な真です。
・完全な無から有は生まれない。何故なら完全な無とは有を生まない無なのだから。
・完全な無とは「存在」ではない。完全な無だけが「ある」という事は起こりえない
・有があること自体が、有がある理由である。何故なら無とは相対する事のない「絶対的な有」なのだから。