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ジーンとドライブ 狙ってできるものじゃない

六月の箱根は特別な思い出になる…はずだった。
結婚して一年ほどたったころの話である。

ホテルに勤める従業員の家族を招待するパーティーがあるから参加しないかと、妹からの誘いを受けて、有難く参加することにした。ジーンは畏まったホテルは苦手である。しかしながら、美味しいものがタダで頂けるのなら話は別なのである。本当に図々しいったらない。
バイキング形式ではあるものの、シェフが振舞うお料理はどれも美味しく、熱いものは熱く、冷たいものは冷たく用意されていて、心配りも素晴らしかった。
しばらくすると、ビンゴゲームが始まった。会場が一気に湧き上がった。が、私はそれどころではなかった。なぜなら、ジーンの料理をせっせと運んでいたからだ。自分がゆっくり座って頂くのも儘ならない状態だった。ジーンはどっかり腰を下ろしたままで動かない。
「ビール、取ってきてぇ。」
「適当に盛り付けてきてぇ。」
可愛らしい声で言うが、言ってることは滅茶苦茶である。私も私でホイホイと取りに行くから馬鹿である。しかし、三度目くらいに漸く気づくのである。
「自分で行け!」
そんなこんなで慌ただしく、ビンゴで提示された数字を只々追いかけるのに精一杯であった。ふと気づけばやけに穴が空いていて、まもなくビンゴな状態になっていた。
「8!8番!」
そう言われて、私はすくっと立上り手を挙げた。ビンゴだ。もう、喜ぶというより事務的にくじを引くために前に出た。ジーンに伝えたいと思うにも、ジーンは自分で料理を見繕いに行って席にはいない。本当にタイミングの合わないヤツだとあたふたとくじを引く。出た目は1番だった。1番って普通にすごそうな数字だけど、まさかね…と思った瞬間、
「カンカンカンカン!」
とベルが鳴り響いた。文字のごとく一等賞だった。超が三つほどつくくらい恥ずかしいではないか。誰のご家族ですか?と質問されたりしたがあまり覚えていない。ベルの音と会場のどよめきに押しつぶされそうだった。
「ありがとうございます!」
そう言って、席に戻った。商品はそのホテルと同じ系列の箱根のホテルのお食事付き宿泊券だった。
「どうしたん?当たったん?席にいないからびっくりしたわ。」
こっちがびっくりだわ。顔が真っ赤になってるのが自分でわかる。すると、妹が走ってきた。
「流石だね。一等当てるなんて。みんな狙ってたからガッカリよ。こんな早い時間に一等が出て、誰誰って大騒ぎよ。家の姉です。欲のない人なんで…って言っといた。」
そう言って笑う。欲がないわけじゃないけど、今回は全く欲はなかったね…。忙しかったから。しかし、申し訳ないことで。なんだか余計に恥ずかしくなった。

こうして、私は箱根のホテルチケットを頂いた。ジーンは旅行が嫌いだから、たぶん新婚旅行はこれになる。とはいえ、当時結婚してもうすでに一年は過ぎていた。『ジーンとドライブvol.9~11 小笠原編』の随分前の話である。ジーンは笑わないし、いつも何かに怒っているような時である。今思えば、そんな時に旅行に行ったって楽しくなんてないよ…と分かるが、私は必死だった。『ジーンと旅行に行くこと』に必死だった。事実を作りたかったのだ。思いもよらない贈り物は背中を押してもらっていると信じて疑わなかった。

私は計画を練り練りし始めた。箱根を最高に満喫できる時期、それは六月。アジサイが咲き誇る中、是非、登山鉄道に乗ってみたい。それから、一番綺麗と評判の宮ノ下の駅では、アジサイと共に写真を一枚。そして、ロープウェイに乗って、向かうは大涌谷。黒卵は食べるべきか?海賊船には乗るべきか?美術館はどれもいい。そんなことをあれこれ考えて楽しんだ。
「どこへ行きたい?」
「べつに。」
いつも気のない返事ばかりが帰ってくる。私は一層ムキになる。私がムキになった時はロクなことが無い。そう気づくのはずっと後のことである。

出発の日は大雨だった。日にちを変更することは頭には無かった。これを逃したら、それこそ無駄にしてしまうと思ったからだ。
新幹線は徐行運転を繰り返していた。予定の時間より遅れていたが、どうにか、登山鉄道の乗り場に着いた。
だが、そこで目にしたものは、登山鉄道運航中止の看板だった。いつもだと、大雨くらいなら運航するがその時は少しがけ崩れが起きたのだ。愕然とした。雨に濡れたアジサイもいいじゃないか?と雨の箱根を楽しむことにシフトチェンジしていたのに、運航中止…。私の頭も思考停止になった。私がムキになるとこういう滅多にない事態が起こりうる。自分がムキになっていたことに気づいて、憑き物が落ちたようにうな垂れた。
ジーンは私任せで何も知らないし、何もしない。だから何も喋らない。横顔はどこか不機嫌である。ジーンは動きが止まることが嫌なのである。その顔を見て我に返った私はホテルに連絡することにした。
流石、ホテルとはこういう時に心づかいが行き届く。バスで送迎してくれることになった。
予定していたいくつかは諦めて、美術館だけは行くことにした。それも全てお抱えの馬車のようにホテルのバスが送迎してくれることになった。台風も悪くない。そう思った。ホテルの中でゆっくり過ごす。それもこういういいホテルではいいものだ。何より、贅沢な時間かもしれない。居場所が落ち着いたジーンは少し、表情が緩んでいた。
私は独り、ギャラリーのようなホテルの売店に降り、寄せ木細工の小さな小物入れを、思い出にと購入した。
翌朝には台風は去って、少し晴れた。運航中止になっていた登山鉄道も運行し、写真もたくさん撮れた。ゆかりのグルメも堪能して、お土産も買った。
何とかかんとか箱根旅行は終えることが出来た。

家に戻って写真を整理してハッキリ分かったのは、ジーンの笑顔が一切ないことと、自分の笑顔が嘘くさいということだ。切って張ったような二人の表情が悲しく見えた。この旅行は失敗だ。そう思った。何にも残らない旅行だ。アルバムを作ろうと思っていたが、私は作ることを辞めた。

食卓には、あの時買った小物入れがある。
「これ、どこで買ったの?」
ジーンはそれすら知らないでいたのだ。
「箱根だよ。」
今だから言えるけど、と、ムキになってた自分のことや、笑顔が変だった二人の写真のこと、寂しい気持ちになったことを話した。
「可哀想に。そんなだった?」
他人事である。笑顔が無く、いつも何かに怒っているようだった自分のことをジーンはあまり覚えていない。そんな自分に私が寂しく思っていたことを「可哀想に。」と言う。同じジーンが傍にいるのに、あの頃のジーンとは違うジーンがいる。不思議である。

あの寂しい旅行から7年ほど経つ。その7年の間にジーンとはいろんなことがあった。今、もう一度あの箱根旅行をやりなすことが出来たら、きっと特別な思い出に出来ると思う。
今度は、自分達のお金で自分たちの意思で行ってみたいものだ。

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