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私とRのセレンディピティ

“Kanpai!”

今年の2月。ニュージーランド市内にある小さな一軒家で、私たちは目を潤ませながらシャンパンで奇跡的な再会の喜びを分かち合っていた。

5年ぶりに会ったRは、サルバドール・ダリのような髭を生やしていたこと以外、何も変わっていなかった。相変わらず笑顔が素敵な人だ。

ああ、また偶然の幸運に恵まれた。私たちは8年という短いようで長い月日を愛おしみながら、思い出話にふける。

出会いとKanpai

今から8年前、私たちはオークランド市内のとあるレストランで出会った。当時ニュージーランドでワーホリをしていた私は、突撃訪問とインタビューの末、このレストランでホールスタッフの職を得た。

スタッフやお客さんの80%がニュージーランド人だったので、ニュージーランドの独特な発音や言い回しに悩まされる毎日だったが、Rはそんな私を助けてくれた最初の人だった。

ユーモアがあって、秀才で、誰よりも繊細で誰よりも優しい。私はそんな彼に自然と魅了されていった。レストランでの最初の3ヶ月は精神的にハードだったけど、彼がいたから自分を鼓舞し続けられた。

彼は自由を好むので、ご飯に行くときはいつも突然だった。そしていつしか私たちは一緒にお酒を飲む時は”Cheers”ではなく、決まって”Kanpai”と言うようになっていた。

それは、Kanpaiは彼が覚えている数少ない日本語の一つで、彼の好きな単語でもあったから。どうやら響きがいいらしい。

いつだって逃げていい

しばらくすると私に彼氏ができた。ビザの関係で一度日本に帰ったが、遠距離恋愛を経て1年未満でニュージーランドに戻ることに。

私たちは2人だけの同棲を考えていたが、極力節約したかったのでフラットメイトを探している友人をあたり、なんとRに行き着いたのだ。Rは私たちを快く迎え入れてくれた。

同棲生活に慣れ始めた頃、生活に潤いが欲しい私たちはダブルワークや長時間勤務の日々を過ごすように。

そのせいで喧嘩をすることも多々あり、ある時Rから「最近彼氏と喧嘩してるようだけど、大丈夫?」と声をかけられた。「うん」と一言返事する私に、彼はもう一度聞く。

「本当に、大丈夫?」

彼の真剣な眼差しを見て、ハッとした。私は本当に大丈夫なのだろうか。

後先考えずにニュージーランドに戻ってきて、仕事三昧の日々を過ごし、最近彼氏と喧嘩ばかりしている。全ては自分の選択なんだから、むしろ大丈夫じゃないといけないわけで。

疲れた。悲しい。こんな生活したくない。色んな感情が逆流する。

大丈夫なんかじゃない。彼は崩れそうになる私を強く抱きしめて「いつだって逃げていい」と言ってくれた。

今の私だったら友達を頼りまくって逃げる方法を全力で考えたと思う。でも、当時の私は自分を奮い立たせることで、自分の選択が間違っていないことを自分に証明しようとしていた。

Rのように心配してくれる人達がいたのは、本当に有難いことだった。以降、自分の時間を見つけたり仕事の量を減らすことで、彼氏との関係は少しずつ落ち着いた。

そして私は逃げた

それから1年後、彼氏と2人で借りたアパートのバスルームの中で私は泣いていた。1年の間、仕事、お金、家、ビザなどの様々な問題に直面し、価値観の相違を目の当たりにした。

そしていつの間にか、物事の主軸が「I」ではなく「We」に変わり、最後には「You」になっていた。そこに私はもういない。

自分を完全に見失い、ストレスでEczema(エクジーマと呼ばれる湿疹。日本では、脂漏性皮膚炎と診断された)を発症。心も身体もズタボロだった。私は一体誰の人生を歩んでいるのだろう。

母親からも少し前に「どうしたの、そんなにやつれて」と言われたのを思い出し、私はようやく逃げる決意をした。「別れる」ではなく「逃げる」だったのは、彼の反応が怖かったから。好きな人を「怖い」と思うなんてこと、あるだろうか。

私はなんとか言い訳をつけて、日本に逃げ帰った。

突然の再会、そして別れ

日本に帰国した後は、昔の職場で一時的に働いていたが、相変わらず彼氏とは連絡を取り合っていた。別れるべきなのは分かっていたけど、一方で彼が変わることを期待している自分もいた。

今考えると、本人の意思がないままに誰かを変えようとするのは、自分のエゴに過ぎないと思う。

モヤモヤする毎日が続いたが、一つだけ楽しみにしていたことがあった。それは、母と叔母とのイタリア旅行だ。しかも、Rとローマで再会することにまでなっている。

頻度は少ないがRとも連絡は取り合っていて、イタリア旅行の計画を伝えると彼は興奮して言った。

「実は今、ローマでパートナーと同棲してるんだ!ローマで会おうよ!」

こんな偶然ってあるだろうか。パートナーができたことは知ってたけど、その彼がイタリア人で、しかも同じ時期にローマにいるなんて。

私たちは、1年半ぶりの再会をローマで果たした。待ち合わせ場所のサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に行くと、背の高いスキンヘッドの男性が立っていて、こちらを見てニコニコしていた。私はRの名を叫びながら駆け出して、彼の胸に飛び込んだ。

後から母と叔母が教えてくれたのだが、あの時の私たちの姿は映画のワンシーンみたいにドラマチックだったらしい。ちょっと照れてしまう。

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サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂

ジェラート屋で他愛もない話をしていた時、私は彼氏と別れるべきか悩んでいることを打ち明けた。だけど、Rは何をアドバイスするでもなく「君がどんな選択をしても、僕は君を愛しているから」と、おきまりの眩しい笑顔で言ってくれた。

無条件の愛とは、こういうことなのかもしれない。

◇◇◇

帰国後、私にもう迷いはなかった。日本に逃げ帰った後、友達や家族と過ごしたり、イタリア旅行をしたり、Rと再会したりと充実した毎日を送っていた。誰のためでもなく自分のために生きていこう。

しかし、彼に別れを告げるのは本当に辛かった。

震える声で「チャンスが欲しい」と懇願され、思わず頷いてしまいそうだったけど、私たちは今まで何度も同じことを繰り返してきた。楽しかった日々もあるけど、それ以上に苦しい日々もあった。

自分を奮い立たせて、彼にその言葉を告げた。電話を切った後、私は長い間放心状態でベッドから起き上がれずにいた。

彼と別れた後は、仕事、友達、家族、趣味の全てに全力投球した。恋愛なんてもうしないと思っていたけど、不思議なものでちゃんとまた恋に落ちた。

私とRのセレンディピティ

5年後の2020年2月。

私は母と叔母を連れて、ニュージーランドに来ていた。私が暮らしていた街を、通っていたカフェやレストランを見せたくて、2人をクイーンズタウンとオークランドに連れて行った。昔一緒に働いていた仲間達とも再会できて、幸せな時間を過ごしてた。

ローマ在住のRには連絡をしていなかったが、私とRの共通の友人と飲んでいた時に衝撃の事実を知った。

Rはパートナーを連れて一時的にオークランドにいたのだ。事前に連絡をしなかった自分を呪い、うなだれていたら、友人がすぐさま私の写真を撮りRに送る。「彼女が帰って来たーーー!」と添えて。

◇◇◇

翌日の夜、私とRは互いに目を潤ませながら、シャンパンで再会の喜びを分かち合っていた。

Kanpai!

彼はまだ「私たちの言葉」を覚えていた。

お互い住む国が変わったり、忙しくなって連絡が途切れたりもしたけど、いつも何かが私たちを引き合わせてくれる。

大袈裟かもしれないが、私はこれを "Serendipity"(セレンディピティ。予測していなかった偶然によってもたらされた幸運)と呼びたい。

なぜなら、私とRはいつだって偶然の幸せに恵まれているから。

今までも、そしてこれからも。

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2015年の夏、ローマの路地にて

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