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クリエイティブ・ペアレンツへのインタビュー第12回:川久保ジョイさん(後半)

〜包摂する世界と子どもの成長〜

親が子どもひとりひとりの独自の可能性を信じて、広げてあげることがクリエイティブな子育てのベースです。既存の枠に生きてゆく方向性を縛られない、ということを深く考えていくと、そもそもわたしたちが日常で接する『普通』と呼ばれるものや、社会自体の形が一体誰によってどのように作り上げられてきたのか、という疑問に行き着きます。親世代が当たり前として受け入れているような社会状況も、20年も経ち子どもが育ち社会に出る頃には、テクノロジーの進歩に引っ張られるようにして大きく変わっているはずです。特にこの変化のスピードはこの世紀に入って急速にペースを上げています。そうした状況のなかで子育てをしてゆくのには、今一度、ひとりひとりの個性を多様性として受け入れていくことが大切です。ジョイさんのインタビューでは多様な個性を包摂してゆく環境を作っていくことの重要性が語られました。

障害も個人の一つの特性として受けとめることで広がる世界

「僕は、ADHD(注意欠陥多動性障害)とアスペルガー(自閉症スペクトラム)の両方の特性を比較的強く持っていますがどちらかというとADHDの特性がかなり強いように思います。パスポートや鍵をなくしたり、様々なところに忘れたり、約束に遅刻したりとADHDの特性が生活の中で多少の支障をきたしていると感じます。妻とのデートのことを覚えていなかったり、人との関わりはあまり覚えていなかったりするのですが、逆に1609年にバーミュダ諸島に遭難した植民船の名前と物語とかは、はっきり覚えているのです。僕が金融トレーダーから写真家そして現代アーティストと仕事を大きく変えているのもその突発的な特性に起因するようにも思います。そしてその特性のおかげで今の自分の作品が作れるのだと思います。」

「病気と障害は、全く異なる概念です。病気は正常(健康)と異常(病気)の状態の定義から来ていて、薬などで治療可能ですが、障害というのはある個人がは生まれ持った特性が環境とのミスマッチにより生活に支障が生じたり不利益を被ることをいいます。その特性は一生変わりませんし、付き合っていくものです。つまり、これは「正常と異常」の考え方ではなく「特性と環境」の関係の中で生まれる齟齬です。人によっては色々な特性があり、鬱になったり、ハイになったり、背が低かったり、視力が高かったり、あるいは外交的だったり、内向的だったりするのもその特徴の一部です。しかし環境によってこうした特徴が障害でなくなるということもある程度は可能です。それはバリアフリーの環境を整えることと共通します。例えば、強い近眼の人はめがねやコンタクトを利用すれば普通に生活できるようになりますし、忘れ物をしやすい僕は、出入り口のドアに鍵、携帯、財布、ヘルメット等出かけるのに必要なものの張り紙をかけておいて、それを忘れずに持っていければ良いのです。自分の特性を知って、それを受け入れて、補助していければ良いと思います。障害も多様な特性の一つだと考え、それほど大きな問題になっていなければ、平気です。世界の若者が地球温暖化と気候変動の阻止に関して声をあげるきっかけを作ったスウェーデンのグレタ・トューンベリさんは、アスペルガーと自認しています。その特性の一つには特定のものへの興味こだわりの強さがあります。本人もこの特性がなければ、一人で毎週金曜日に学校を休みスェーデンの議会前で一人、プラカードを掲げつづける活動をやり続けられなかったと発言しています。それが若者から大人世代に責任を問う世界的なムーブメントにまでなっていきました。」

− 普通であることを望む、普通とはなんだかわからない錯覚でもあると思いますが、それにこだわって世界を狭くするのではなく、障害も含めて個人の特性としていくことは、世界を拓いていくことにつながっていく。グレタさんの例は、親御さんの理解もあって続けられたと思います。学校含めて周りの理解と環境が特性を引き出していきますね。

男性の勝利主義とは異なるフェミニズムな社会へ

「2015年にトーキョー・ワンダー・サイト本郷の“200万年の孤独”という展覧会で、父の絵画と母方の祖父が描いた絵と僕と息子で作ったチェスボードを展示しました。このテーマはガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』から来ています。歴史の中でつながって、繰り返される戦争の過ちについて提示しました。それはヒットラーが選挙で勝利する前の1932年と2015年当時の日本の安倍政権の支持率の類似性からさらに現代社会にまで繋がりループしていると思います。ヨコハマ・トリエンナーレでは、世界のアートの一番の舞台となっている『ヴェネチア・ビエンナーレ』、スポーツの最大の祭典『オリンピック』、一番のアカデミーの権威ある賞として『ノーベル賞』の3分野でその権威の正当性の起源をリサーチしマインド・マップをロンドンからリモートで制作しました。この中に父の絵画も入れさせてもらっています。こうやって起源を追っていくと「男性が歴史を作っていく」というパターンが見えてきます。一概には言えませんが、どちらかというと男性に強い特性としてある自己顕示欲、権勢欲(攻撃性)や所有欲がベースとなっていると思います。人間に最も近い種の一つの雄ゴリラにも観られる特性です。いわゆるアルファ・雄です。

展示のもう一つはタコに関する記録ですが、タコの神経回路のように水平的で分散的に広がる世界を描校としました。結局タコは、コロナ禍で市場が止まってしまい手に入れることができませんでした。その状況はジレンマや悩みを生み、失敗と成功とは何かを問うプロセスになり、最終的にはこれらの葛藤すべてをありのままに提示するところからスタートすることになりました。マインド・マップのように歴史の起源をたどると、パワー・権力が絡み合い、「もっと強く、もっと高く、もっと早く」(これはオリンピックのモットーでもあります)、といった価値観が目指されてく過程が描かれています。

「アメリカの学者ダナ・ハラウェイは、科学技術の進展をフェミニズム、ジェンダー、スピーシーズ(種)の視点で考察しています。彼女の著書『Stay with the Trouble』では、古代神話から現代のハリウッド映画までのメインストリームの物語の多くは、単純化すれば男性が戦って何かを得て帰還するというストーリーだと言うことを指摘しています。一方フェミニズムは、男性の勝利主義とは異なる価値観を元にしていると思います。伝統的に父性(男性)は厳格的であり、母性(女性)は包容的だと言われています。これからの社会では、インクルージョン(包括)やダイバーシティ(多様性)が大切な要となっていくと思います。その中で弱者やマイノリティが社会的にエンパワーメントとされていくことが大事だと思います。「一般とは違う」とか「ちょっと変」とかが後ろめたいものにならず、誰もが劣位にあると感じずにいられる社会になっていくことが健全な社会をつくるには大切だと思います。

− パワーを求めて競争することが前提とされている社会の中に子どもたちを押し込んでいくのではなく、ちがう社会がありえるということを大人も子どもも一緒に示していけるといいですね。そうした中でジョイさんが、子育てで特に大事にされていることはなんですか?

ありのままの自分を受け入れる『あきらめ』

子どもがいることで大事にしていることは『あきらめ』です。身近なことで言えば、叱りたくなることもあります。息子に生意気な口答えをされたときに、「誰のおかげでご飯を食べているのかわかるか?」と言いたくなることもありますが、それは決して口にしてはいけないことだと思います。子どもは親に養ってもらう権利があり、親にはその子の生意気さに関係なく養う法的義務があります。そして、それだけではなく、さらに重要な点は「働かざる者、食うべからず」のように「ありがたく思うべき」という義務を果たさないと「食べる権利」を得られない、というのは、本来それぞれが独立しているべきの義務と権利を表裏の条件関係で結びつけてしまうことです。つまり本来無条件に持つべき権利を特定の義務と引き替えにだけ与えることになってしまいます。これでは親に対する尊重や信頼が持てるはずがありません。ついつい感情的にしかりたくなる気持ちになることもありますが、なるべく理性的に考えるようにつとめています。こうして子どもは親にも尊重されて、親に無条件にたとえ親の言うことを聞かなくても、行動を受け入れられることで、親との相互の信頼関係が育まれ、それぞれが自分に自信がもてるようになり、コンプレックスを超えていけます(あるいは、そういったコンプレックスをあまり生まないですむかもしれません)。もちろん、それよって親も尊重されたり、尊敬されたりすれば、親自身も評価されて自信が持てるようになり、自分を受け入れていくことにつながります。こうした関係の中で育まれた自己受容は、それぞれが社会と接するときに、たとえ貧しくても、かっこ悪くても、成績優秀でもそうでなくても、お金を持っていてもそうでなくても、自分や他者をありのままで受け入れていくことにつながっていくと思います。こうした意味では、諦めも大切なのかもしれません。「諦める」と聞くと多くの人はネガティブなイメージを持ちがちですが、「諦める」の語源は「明らむ(明らかにする)」なのです。僕が話している『あきらめ』とは、鈴木大拙が話す悟りから来ることで、とても大切なことです。いまある世界の全てを受け入れるというようなことです。人間のすべての行動や発言には現状への不満に対する反応が背後にあります。あるいはその不満の裏返しです。なので、自分をそのまま受け入れるとなると満たされて、もう行動や発言が不要になってしまう可能性もあります。そうではなく、ありのままを受け入れた中で、行動をしていくことです。矛盾のようで難しいですが。良い社会を望んで、そのうち、その理念のために戦っていくモードになってしまうと、それはなかなか満たされない人生になってしまう可能性がある気がします。このジレンマはフェミニズムにも当てはまると思います(僕がフェミニズムを語る資格はありませんが、僕の言うフェミニズムは女性だけでなく、障害者、弱者やマイノリティに対して男性や健常者がデフォルトで受けている社会的優位性を排除あるいは償うべきという意味です。なので厳密には僕は「弱者主義」とでも称した方がいいかもしれません(※1))。女性や弱者がその権利を主張するために立ち上がって戦うとそれはもう女性や弱者の形をした戦う男性(強者)みたいなものになってしまうというジレンマと似ている気がしますいます。」

何かにとらわれることなく、日々輝く暮らし

「生まれて、育って、息をして食べていることは当たり前のように思いがちですが、実は棚からぼたもちなのです。生まれて来なかったいのちの数は無数にあります。幸不幸も善悪も普遍的ではないと思います。「誰にとっての善悪(利害)」、あるいは主語によってその意味は変わってしまいます。それと同じように弱点やコンプレックスも相対的なものでこれらにとらわれないことが大切だと思います。自分に自信を持つことは容易にできることではないと思います。しかし、生きている中で偶然、環境、本や人との出会いで、様々な考えとの出会いがあり、特定の価値観や考え方にとらわれがなくなり、自分に自信をもち(自分の価値をみとめてもらい)その自信とともに歩んでいけることもあると思います。そんな偶然が自分に現れたらそれだけでも十分に幸せなのだと思います。」

人間が思い通りにできないことを学び、効率重視から頭を切り替える

「コロナ禍では、自分の予定通りに物事が進まないということが普通なのだと言うことを改めて学ぶ良い機会でした。高度成長の20世紀は(経済的にも知的にも)効率重視で、その良い象徴である原子力発電所がいくつもできました。しかし、東日本大震災によって、原子力の人間が思い通りにできないことを、長く続く大きな被害とともに気づかされました。コロナ禍でも効率重視から頭を切り替える大事なチャンスとして受け止めています。

共同体としての家族をつくり、様々な個性、一見マイナスに捉えがちなものも大事な個性としてとらえることで子どもの世界を開いていくことが、多様性を包摂する豊かな社会を構成していくこととなっていきます。ジョイさんの生き方からのメッセージは、今一度立ち止まって家族、社会、生き方を新たに思い描くことに向けられていると感じました!様々な環境と、これだけリベラルに考えられている親御さんの元で育っているお子さんたちが、これからどんな未来と社会を柔軟につくっていくのか楽しみです!

インタビューの後日ジョイさんからあらためて補足文が届きました。

(※1)後日補足:「障害」の定義やこれに関する考え方に関しては2006年に国連総会で「障害者の権利に関する条約」が採択されました。日本もこれに批准を署名しています。条約には障害に関する「社会モデル」が示されています。障害の定義に関しては「医学モデル」と「社会モデル」があります。医学モデルでは障害は個人の生理学的要因に起因し、社会に適応するためにその個人が病状を治療したりリハビリなどのプロセスを経ることが必要だと考えます。一方、社会モデルでは、障害(障壁)は社会の構造的が生み出していてそれを取り除くのは社会の責務だと考えます。バリアフリーの考え方は後者に当てはまります。

その点においては、女性が社会において受けている不利益も社会モデルに当てはめることも可能かもしれません。各個人の不可避な事象によって生まれ持った特性、例えば、身長、体質、字の苦手さ、特定なものへのこだわり、利き腕、注意維持力の低さ、性別、人種などにより、社会的な不利益を被ることを障害(を被ること)だとすると、世界の多くの文化圏では、女性であることは障害と定義され得ます。しかし、この不利益は何千年も続いているので、普段気付きにくいものです。多くの場合、女性自身もこの男性優位の偏見を無意識に内在化していて、自分のアイデンティティの一部にすらなってしまっていたりします。

僕もそのバイアス(無意識的偏見)が自分にとって「当たり前」になってしまっていることを日々認識することがあります。みなさんも是非試して欲しいのですが、今日の新聞を広げてみてください。そして、そこに載っている様々な人物(政治家、研究者、事件の関係者、スポーツ選手などなど)の写真を一つ一つ性別ごとに数えてみてください。それぞれ何人だったでしょうか。もしその男女の数が逆だったら違和感を覚えませんか?もし、日本の首相や議員の85%が女性だったり、官僚、企業の経営者、研究者やスポーツ選手、教科書に載っている偉人の殆どが女性だったら驚きませんか。逆に男性がこれらのポジションを占めていることには同じように驚く人は少ないと思います。人工の男女比が半分ずつなのに現在の社会はそれぐらいバランスが男性に優位になっているのですが、それが当たり前になってしまって気付きにくいのです。法律の問題ではなく、もっと無意識なレベルでの偏見だと思います。僕自身も沢山の偏見に満ちた眼差しで日々社会を見てしまっているのですが、様々な機会や出会いによって一つ一つ気付かされていきます。

蛇足ですが、みなさんの小学校の頃の教室では窓が黒板に向かってどちら側にあったか覚えていますか?当たり前すぎて考えたことなかった方もいるかもしれませんが、必ず向かって左側にあったはずです。もちろんその理由は人口の90%が右利きだからです。僕は左利きだったので自分の手が影をつくって自分の書く文字がよく見えませんでした、そのため、鉛筆を持つ手を90%回転させて鉛筆先が自分に向くようないびつな鉛筆の持ち方になり、今でもしばしば「よくそんなぺんのもちかたでかけるね」と言われます。これで特に大きな被害を被ったわけではありませんので不満はありませんが、こうした何気ない構造から障害は生まれていくのだと思います。普段何気なく多くの人が使っている駅の改札口や、公衆電話の受話器の位置(今は殆ど見かけませんね)、包丁やはさみの切れ具合、パソコンのマウス、ピアノの鍵盤、習字の道具、寿司屋での寿司の並べられ方、自動販売機のコインの入れ口の位置など細かく言えば左利きであって不便なことは沢山あります。こうしたマイノリティの視点を取り入れることで気付かされる偏見やバイアスもあると思います。僕はこうした自分の気付かなかった視点に気付くときにわくわくします。

話は戻りますが、こうした、生まれ持った特性により生じている不均衡を変えるためには当然、制度を変える必要もありますが、それだけではとうてい状況は良くなりません。こうした、日々、私たちが気付かない盲目さや偏見を認識してそれをシェアすることから始まると思います。問題の解決に最も大切なのは解決法ではなく、まずその問題にしっかり気付くことだと思っています。

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