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【うつ・AC】闘わなければ、あとは虚無しかない

ついにその時が来ました。
いつかは決着をつけなければならない、と思いながら、先送りしてきた例の案件が、いよいよ大詰めを迎えました。

物騒な話ですいませんが、例の案件とは、3年前に起きた暴力事件のことです。↓

事件のあらましは、こうです。

信用していた人から恫喝セクハラの被害に遭ったのです。その時はこれぐらい大したことは無いと看過するつもりでした。大丈夫じゃないのに大丈夫なふりをしていました。

しかし、暫くしてから気が重たく沈むようになって引きこもりがちになってしまいました。ダメージは思ったよりも大きかったのでした。

このまま泣き寝入りはしないぞ、と誓いながら
事件の決着をつける機会を待つことにしました。

事件のことは悔しくてなりません。こんな時は全身全霊で怒りを表現しなければならないのに、その瞬間、からだがフリーズして何も言えないまま時間が過ぎていった。

外に向けて表現されなかった怒りは、からだの中に留まって激しく自分を攻撃するようになって、私は鬱っぽくなりました。


怒りを抑圧すると、鬱になります。

だから怒りは表現したほうがいいのです。怒れないと、依存的になるし、犠牲者になります。自分の人生を生きていないのと同じです。

喜怒哀楽が激しい人は、日本社会ではあまり好まれないかもしれないですが、感情表現をきちんとできる人こそ自己表現ができる人であり、自立的といえます。

けんかをするのはイケないことなのでしょうか。いいえ、自分を傷つける者には、怒りをもって全力で応戦するぐらいの感覚が大事になってきます。


子供時代は、覚えてないぐらいの詰まらない理由で、つかみ合いの兄弟げんかをしたのは日常茶飯事のことでした。うちは3人兄弟でしたが、一人っ子はいつけんかをするのでしょう。

長さ30センチもあるミミズを振り回す1歳児だったというワイルドな私が、人生のどこかで、攻撃性を抑圧して怒れない人になってしまったのでした。

怒りを出せない人、あるいは怒りがあることを認められない人は子供時代、まわりの誰かの怒りの表現に危機感を覚えたことがあるかもしれません。あるいは、怒りを表現することを許されなかった環境にあったのかもしれません。

攻撃性を抑圧している人は、無気力になり、生きている実感が無くなります。いい人として生きることになって、パワハラ、モラハラのターゲットにされて、いいことはありません。

だから、けんかをしましょう。
闘わなければ、あとは虚無しかないからです。

恫喝セクハラ事件は、知り合いの市会議員に相談のうえ、今月中に警察に被害届けを出すことにしました。証拠がないため警察がどう処理をするかわかりませんが、加害者がどんな形でもいいから社会的制裁を受けることを望みます。

知り合いの方は、相談にのってくださったうえに、「人権のためにおやりなさい」と励ましてくださいました。やります。反撃します。ありがとうございました。


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