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家事こそ生きる営み

家事の分担という話題では、いかに家族の協力を得るか、いかにサービスを上手に利用するかという議論になりがちだが、私はもう少し広い視点で分担ということを考えてみたい。


家事とは何か

人が生きるには、食べ物を食べ、清潔な衣類を身につけ、片付いた部屋で過ごし、夜は清潔な環境でぐっすり眠ることが大切だ。だから、料理、洗濯、掃除をすることになる。もちろん子供を育てたり、年老いた親の介護も必要になってくる。これらすべてを家事と呼ぶなら、家事とは、人が生きていく上で不可欠の営み。エッセンシャルワークである。

軽視される家事労働

だがなぜか、この社会はこれを軽視して、家事や育児のためにフルタイムで働けないなら、安い賃金で我慢しなさいとなるし、保育や介護などのケア労働はもともと主婦が無償でしていたことなのだからと、低賃金を押し付けている。そして、低賃金だから、主婦の働きは軽視され続けるという悪循環にはまっている。

他方で、男性は相変わらず企業戦士として残業に明け暮れる働き方が求められており、最近では、女性も男性並みに働くことが当然のこととなりつつある。そしてそれが男女平等が実現した姿だと考えられている。

こうなると、家事に時間をかけない暮らしが理想として追求されていく。機械化による効率化や、家事代行サービスなどを頼る外注化へと向かっている。それでも、やらないといけない家事は、忙しい者同士の押し付け合いとなりがちだ。かくして、どうすれば気持ちよく分担できるかが議論されることになるのだろう。

家事の本質

しかし、家事をいかに効率よく片付けるかに目を向けていると、見落としてしまう大切なことがあるのではなかろうか。心を込めて料理をし、家族との団欒の時間を大切にしたり、きれいに掃除が行き届いた部屋でくつろいだりすることこそ、お金には代えられない、本当の意味での豊かな暮らしではなかろうか?

お金に代えられれないというのが、家事の本質でありそうだ

やり方一つで変わる家事の中身

コーヒーを飲むこと一つとってみても、コーヒー豆を挽いて、そこにお湯を注いで立ち昇る香りを味わい、綺麗に洗っておいたカップを温めて、そこにコーヒーを注いでゆっくりとその味を堪能するというやり方もあれば、缶コーヒーを喉に流し込むというやり方もある。

前者のやり方をする余裕があれば、家事を他者に押し付けたり、できるだけ効率よくこなそうなどと考えたりしないで、やりがいを感じるようなやり方で家事ができるだろう。みんなでやれば楽しいことのはずだ。

本当に考えるべきことは?

ところが、時間的に余裕がないと、喜んで役割を担うこともできなくなってしまう。だから、分担について議論する前に、どうして家事を楽しむ余裕がないほど忙しいのか、考えてみる必要がある。

だが、時間に余裕があっても、家事をできれば避けたいと考える気持ちがあるとすれば、それは家事を軽視してきた社会によって刷り込まれた価値観が影響しているのかもしれない。家事とは取るに足らないことという価値観を拭い去っていく学びも必要だ。そうすることで、家事をしてくれている人への感謝の気持ちが芽生えるなら、家族が互いに労り合ことができ、家庭が温もりを取り戻していくだろう。

家事とは学びの宝庫

家事をすることで学ぶことは他にもたくさんある。例えば、掃除や洗濯において、どうすれば綺麗になるのか、環境を汚さないやり方をするにはどうすれば良いのかは、今の時代に必要な学びだ。ところが忙しすぎると、汚れたままで放置することになって、汚れは落ちにくくなり、強い洗剤を使うことにもなってしまう。

柔軟により良い社会を目指して

もちろん、特別な記念日に外食をしたり、疲れた時に家事代行サービスを頼んだりすることはあっても良いと思う。女性は家にいるべきだ、などと言うつもりもないし、外で働くことよりも家事の方が大切だと主張しているわけではない。外で働くことで社会とのつながりが生まれるし、物の見方も広がるだろう。

それでも男女を問わず、家事を楽しめる余裕のある働き方ができる社会であってほしい。家事というのは大切な働きだし、みんなで協力しあって楽しく家事ができるような社会を作っていきたいものだ。家事を通して人間として成長させてもらえるのだから、家事をすることがみんなの喜びとなって、助け合いながら生きていけたらこれほど素敵なことはない。

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