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なぜ唐人行と紅毛行が分かれたのか?

タイトルの問題について考えていたのですが、調べても答えが見つからないので以下は推測です。

宣教師がくるまえから長崎はそもそも港町であり、さまざまな国の船が訪れ、ときには難破や漂泊船がたどり着くなどしてきた土地です。
日本人とそうでない国籍の人が境界線をもうけず暮らすことを”雑居”状態と呼ぶのだそうで、それをごく自然に受けいれて暮らしていたようにみえます。
平戸にはもとから遊女屋があり、唐人水夫たちがそこを訪れるのも制限はなかったようです。おなじ平戸にオランダ商館ができたときも「商館か遊女屋かわからない」状況だったようで、”日本人遊女は紅毛客を嫌がっていた”とするのには研究者の方々も言及していますが、日本人男性としてのただの願望じゃないか?と思っています。



わたくしごとで申し訳ないのですが、昔の友人が米軍基地のなかの人とお付き合いをしていたときに幾度か誘われて週末に基地に遊びに行きました。基地へはなかの人が一緒にいればゲートを通過できますが、帰りはそれこそ自分たちだけで帰ることができました。それが、朝になるとなかのゲート付近に女性たちがあちこちに溜まっているのです。「あれはなに?」と聞いたら「六本木かどこかでナンパされてきたけど帰りかたを教わっていない人たち」と教えてもらえました。ナンパしたなら近くの駅くらいまで送ってあげたらいいのに、と無責任さにあきれた記憶があります。

おそらく「なんかガイジンさんと遊んだら楽しそう」と思った女性たちは、現代とおなじように戦国時代にも江戸時代にもいたのではないかな、と考えています。いまとは違う倫理観や法律のもとでも、人間の本質ってあまり変わらないんじゃないかなと思うので。
ただ、現代でも個人間売買春や援交は捕まるのとおなじように、江戸時代ではそういった女性たちは私娼ということになってしまい取締りの対象になったのだと思います。江戸時代のほうが捕まると奴女郎に落とされたりするので罪の重さが苛烈ですが。

唐人行と紅毛行は何故わけられたのか。
・性交を伴う仕事なので妊娠出産した場合の事務処理など、または出入りする遊女がはじめからわかっていれば管理しやすかったのでは
・言葉の問題。唐人屋敷と出島で使われる言語が違うので、接客や生活に必要な言語学習や生活習慣の勉強を禿時代からさせておく必要があったのでは?
・日本人客側のニーズ。商人であれば取引先が唐人であれば唐人行遊女、出島であれば出島行遊女だと情報が得られすかった
または、単純にどちらかの行先にいる異国人を忌避したい場合、分けておいたほうが楽。実際に唐人行でも出島行でも「日本人しか客にとらない遊女ですよ」と呼び込みをしていたそう

言語については「翻訳の通詞がいるんじゃないの?」とはじめは思っていました。それが調べていくうちに、一度呼べば数日から数ヶ月におよぶ滞在期間と、毎日の出入りする人数と通詞の人数が釣り合わないこと。まさか寝室までは入ってこれないだろうと気づいたこと(笑)から「居留地内で生活するなら、ある程度の言語学習をしておかないと困るだろう」と。
唐人屋敷はわかりませんが、出島内では日本語・オランダ語・マレー語・その他の言語を使って意思疎通をしていたそうです。マレー語などは商館付きで来日している召使いによるのだと思います。予想でしかありませんが。

紅毛行遊女が紅毛人客だと揚代が高くて実入りがいいのは、避妊ができない時代においてハーフを産むのを忌避したせいではないかと思います。実際に長崎でハーフが一斉に国外追放になったのは数回ありますし、仮に父親に引き取られても東インド会社の規定で扱いが変わります。同時代のほかの遊郭とは違い、出産が許されていたとしても母親としては子の行く末がふつうのものでないのは耐え難かったのではないかと考えます。

これは唐人行遊女もおなじだったようで、父親が名乗りでているのに母親である遊女側が頑として認めず、裁判になった例も記録に残っています。見た目が日本人とそう変わらないなら日本人として産んで育つほうが、潤沢な養育費を受け取るよりもいいと判断したのでしょうか。
彼女たちの立場になったことがないので、憶測でしかありませんが。

それにしても、長崎市の図書館や博物館に行けばわかりそうなことがおおくて、コロナ憎しの毎日です。はやく終息しますように!


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