伝説のこどもたち ゆかちゃん1
感覚統合療法を始めて、2.3年たったころ、整形の外来から呼び出しがありました。一眼見て、重度の自閉症だとわかりました。
おかあさんは、ゆかちゃんをおんぶしていましたが、診察のため下におろそうとした途端、走りだしてしまいました。道路を横切り学校の校庭まで、一気に走って行きました。おかあさんと私は、車に轢かれたら大変と後を追いましたが、校庭にいくとけろっとして笑いながら立ってました。お母さんは、ほっとしたような顔で背中を差し出し、ゆかちゃんは、飛び乗りました。お母さんは、首にネッカチーフを巻いていましたが、その隙間からは、いく筋もの傷が見えました。
ドクターからは、感覚統合療法と、言語療法の指示が出ました。訓練室にいっておもちゃを出してみましたが、見向きもしません。ブランコの高さを調節するためのアルミの脚立をおんぶされたまま、ペロペロとなめていました。「金属か…」と思ったので水道の栓に繋いであるチェーンを外してみました。目の前でゆらゆらと動かすと手を伸ばしてきます。「もう少し、もう少し」と、駆け引きしてもいいところに来ても、不意に横を向いてやめてしまいます。そのうち、おんぶからするっと降りて、ぴょんぴょん跳びながら頭を叩きはじめました。「あ、失敗した!」イーイーという奇声とともに、両手で頭を叩きます。おかあさんは、ありがとうございましたと、帰る体制になってます。
「わかりました、では、また来週。ゆかちゃん、バイバイ」ゆかちゃんに手を振ってみますが、相手にしてはもらえません。
はじめてゆかちゃんに会ったのは、3歳2ヶ月です。そこから、半年ほどは、ほとんどなんの変化もありませんでした。トレーニングバルーンと呼ばれる大きなボールに、おかあさんがすわり、おんぶされたままのゆかちゃんは、おかあさんの後ろでバルーンになりながらジャンプしはじめたのも、かなり後だったと思います。私の後ろではなく、おかあさんのおんぶでした。そのほかに小豆のプール、バネ付きブランコなどは、何年か後に遊べるようになりますが、パニックの回数も減ることはありませんでした。
家では、バルーンと、クラシックのレコードをきいていたそうです。食事は、千切りにしたものにこだわっていたようです。手づかみで食べて、その手を襖になすりつけるので、お父さんは定期的に襖を張り替えていたとききました。
就学の時期になりましたが、ゆかちゃんは、養護学校(今は支援学校と呼ばれています。)のそばに家を建てている最中でした、そのため就学猶予という制度をつかって、1年学校にいくのをのばすことになりました。代わりに、肢体不自由児施設の通園に通うことになりました。しかし、通園のお部屋には、身体の不自由な子供達が寝ています、ゆかちゃんは、走り回ってしまうので、お部屋には入らずずっとブランコにいました。そしてお母さんは、何時間もブランコを押していました。やっと訓練室のブランコにも乗れるようになりました。あの頃は、ずーっと、ブランコに乗っていました。同時に少し、落ち着いてきたような気がしてきました。
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