見出し画像

体にいいライター業 その1

これまでのサバイバル状況を80字以内でまとめよ

51歳までなんとなく生きてきて、子供時代からわりと好きで、今も仕事になっていることといえば、「書くこと」と「ダンス・バレエに関わること」だ。(69字)

のっけから駄文すみません。
一文の中に「こと」が3つもあり、「なんとなく」「わりと」とごまかし表現が2つある。
ひどいですね。

子供の頃から書くことと踊ることが好きで、それが51歳になる現在も仕事として続いている。(42字)

まだ「こと」が2つだが、まあまあすっきりする。でも実態とはかなり違っていて猛烈に恥ずかしい。なんか曖昧表現を入れてごまかしたくなるのだ。

今回のテーマは「サバイバル術」なのだけれど、自分がなぜいちおうフリーのライター・編集者として生き残って……いや本当に生き残っているのか? しかもその経緯の中に、人様に読んでいただく価値がある項目は存在するかと考え始めたら、胃は鈍痛を訴え、足下はガラガラと崩れ落ちた。(おもに更年期と、多少の飲み過ぎのため)。
とはいえ、お目汚しながら簡単に「書く」と「踊る」について振り返ってみます。

「書く」ことは、子供の頃は素直に好きといえた。

友達と物干し台の上なんかで日向ぼっこをしながら、好き勝手にお話を書くのが本当に幸せだった時期がある。でも思春期に入るにつれ、自意識をさらすようなことが猛烈に恥ずかしくなってやめてしまった。大学で専攻を選ぶときも、本心はひかれていた「文芸専修」は選ばず、「わりと好き」くらいの美術史学科に進んだ。就職先の教育出版B社で国語教材の編集を8年やり、マネジメント系の仕事があまりにもできなくて2000年に退社。その後やっと「書く」が仕事になった。

「踊る」に関しては片思いでしかない。

小さい頃からバレエを習いたかったが、家の経済状況や何やらで習えず、大学で創作ダンスサークルに入った。芸術系でも体育大でもないのに、周囲には後の「コンドルズ」のメンバーをはじめ、一生ダンスを続けていくような人がたくさんいた。私は盆踊りもジャズダンスもフラメンコもヒップホップも、踊りと名のつくものはみんな好きで、趣味でモダンダンスやバレエを細々と習いつつ、ずっと「踊る人」に憧れてきたと思う。

会社を辞める直前に、ダンスサークルの友達(今もプロダンサーとして活躍している山田珠美さん)の自主公演を見に行き、そこで制作をしていた中島香菜さんと偶然出会った。彼女は編集事務所・晴美制作室(株)の編集者で、「今、劇場プログラムの編集で人手が足りないからどう?」と誘ってくれたのである。以後、晴美制作室代表の東海晴美さんにも、香菜さんにも、もう20年お世話になっている。お陰で東急文化村・シアターコクーンの芸術監督だった故・蜷川幸雄氏になぐり書きFAXで怒鳴られるという珍しい経験もしたし、書籍や医療PR誌編集の仕事もさせていただいている。
個人としては、稽古場レポートやバレエ上達法のハウツー記事など、ダンス関係の仕事をぽつぽついただいたり、B社から教育情報や子供向け読み物のお仕事をいただいたりして、今に至る。

振り返ってみると、仕事に関して「受け身」で来たこと、運が良かったこと、結局は「好き」が大事、などの点は他の「アラフィフ女子」メンバーの方々と共通している。
「憧れの人はいたんだけど、現実を考えて二番目に好きな人と結婚」みたいな感じで進路や就職を決め、その後もいつまでも「本命」のまわりでウロウロしていたら、それがいつのまにか仕事になったというところか。

分野としては教育、料理、健康・医療、ビジネス系などわりとなんでもやるのだけれど、「取材して書く」仕事をいただくことが多い。最近はダンス・舞台芸術系が多いが、ダンス専門ライターではない。いろいろな職種の方にお会いできる今の状況がありがたく、自分に合っていると思う。

「書く」ことは全身運動である(理想)

書くことが今も本当に好きかといったら、微妙だ。ごくたまに「書く快楽」みたいなものを味わったことはあるが、しんどいことのほうがはるかに多い。だいたい、長時間座っているのが嫌いだし。ライター業は頭と手しか使わないデスクワークで、肩や腰は痛くなる、体によくない仕事だとずっと思っていた。何かの本で「文章とは肉体である」という言葉を読んだことがあり、そういう文章に憧れつつも自分が書けるとは思えなかった。

ダンサーや歌手は体が商売道具である。いろいろな振付家や作曲家の作品を自分の体で「歌える」ようトレーニングをし、リハーサルを繰り返し、十分なメンテナンスを行って休養を取る。職人さんであれば五感を総動員して素材と向き合い、手のわざを駆使してよい「モノ」を仕上げる。
体が商売道具の職種ってカッコいいなあ!! とずっと憧れてきたけれど、実は「書く」仕事にもそういう面があることに最近気づいた。究極は「書く」=全身運動であり、体に良いライター業も存在すると思う。

取材前の理想的な体の状況としては、

・好奇心がいっぱい、聞きたいこと(意志)がはっきりとある
・ただし決めつけない。どんな方向の話も入るニュートラルな体

だと思っている。

いってみれば「透明感のある体」。感情や存在感のない透明人間ではなく、透明感のあるふつうの人の体だ。これは、アップを済ませた、リラックスしているけれど適度に緊張感のあるダンサーの体と似ている気がする。それも、本番前ではなく、新作のリハーサル前、主役級のダンサーではなく群舞のひとり。主役は取材相手である。

インタビュー術については本も出ているし、noteの中にもすばらしい記事がたくさんあるので、今更なんですが。
取材をさせていただく相手は、たいてい初対面である。よく言われるとおり、相手についてはできるだけ調べておくべきだと思う。著書や他の取材記事、出演した舞台や映像など、その方の代表的な仕事はなるべく見ておくべきだ。
でもこれは「知識が大事」なのではなくて、上の「理想の体」をつくるためだと思う。知識はむしろゼロのほうがいいという人もいるが、そういう方は初対面の相手に対しても緊張せずに、興味と尊敬をもって話ができるのだろう。調べすぎて頭が情報でいっぱいになってしまい、相手の言葉の真意やニュアンスが体に入ってこない、というケースもたしかにある。情報や知識はその人そのものではない。

私はだいたい、他の多くの方々と同様、こんなつもりで取材に出かける。

取材相手についてある程度調べる
→興味をもった点や疑問点を書き出し、質問事項の参考にする
→取材時は調べたことにとらわれず、聞くことを楽しみ、取材相手の語りたいことを語っていただく

報道系のライターさんだと、怒らせて本音を語ってもらうとか、もっとハードなテクニックをいろいろお持ちだと思う。そういう方のお話もぜひ聞いてみたい。

「信用ならない、挙動不審な体」にならないために

さて、取材相手の仕事について資料がないこともあるし、勉強しても専門外で知識が浅いことを自覚したまま、インタビューに臨まなければならないこともある。正直、そういうときは

・気が引けている
・気負っていて、変な力みがある
・少ない生半可な知識に頭がとらわれている

というダメな体になりやすい。

取材される側からみると「この人は自分の話をどこまで理解できるのか?」「そもそもどの程度テーマに興味があるのか?」「なんか信用ならない」という感じになってしまう。いくら隠しても、硬さや挙動不審な雰囲気が、体からこぼれているのだと思う。私もこの点で大失敗したことが何度かあるのだけれど、詳しくはまたいつか……。

繰り返しになるが、これは知識の問題ではない。

記事の企画次第だが、ターゲットが「そのテーマに興味はあるが詳しくはない読者」であれば、その読者の立場で聞きたいポイントを明らかにすればたいてい大丈夫だ。こちらにどの程度知識があるかを素直にお伝えし、素人ならではの質問もしたほうがよいと思う。専門外の人にもわかりやすく専門的な話を書くことができれば、むしろ強みになる。

専門外なのに、専門家に取材して専門家向けの記事を書け、という仕事をもらうことはまずない。あったとしたら、私なら編集者に相談してインタビュアーを別に立ててもらうか、周囲の詳しい人にどんどん取材に参加して質問していただけるよう、お願いしておくと思う。それもできない事情があれば、必死で勉強するけれど、やはり取材相手に「頑張って勉強はしたのですが、やはりわかっていないかもしれません」と正直に言うだろう。内容のあるお話さえ聞ければ、何とかいい記事にまとめることは可能だ。不明点は後から調べたり、確認を繰り返してクリアしていけばいい。一度そういう経験をしておけば、その分野に明るくなれて興味も深まり、次回はもっといい記事が書けるかもしれない。

自分の力量に不安があるなら、編集者や取材相手にきちんと伝えたうえで最大限の努力をすれば、「ダメな体」にはならない。いちばんいけないのは、わかった振りをしたり、大事そうな話題なのに自分の理解できないところをスルーしたりといった、不誠実な態度だ。そういうことを続けていると、絶対に体に悪い。

「透明感のある体」でいると、共感も視点の切り替えもしやすい

取材中は、お話を聞きつつ「こういうことかな」と考えたり、話に出てくる情景を想像したりしていると思う。たとえば取材相手がダンサーの場合、リハーサルで苦労したエピソードや舞台に立った時の気持ちを臨場感たっぷりに語ってくださることがある。
そんなときは、ダンサーでもないのに、自分も踊っているかのような気持ちになる。スポーツ選手でもないのに、逆転勝利のきっかけとなったシュートのコースがどう見えたかを体感できたり、画期的な新商品のアイデアを得た開発担当者の高揚感を間接的に味わえたり、というのはインタビューの醍醐味だ。心からの共感は大事だ。でも同時に、「たかが1、2時間の取材でその方をすべて理解できるわけはない」ということも肝に銘じておく必要がある。
それと、相手の話に入り込むだけでなく「この話、この方を全然知らない読者にもわかるのかな」とか、「違う意見の人もいるんじゃないかな」とか、「そういえば同じ時期にこんな事件があったけど、この方はどう思ったんだろう」とか、視点や立場をいろいろ変えて質問することも大事だ。共感ばっかりだとべったりしたホメホメ記事になってしまいがちだし、共感できているというのがそもそもの勘違いで、完成原稿が取材相手の赤入れだらけになる危険性もある。
ニュートラルで力みのない、透明感のある体でいると、想像力もはたらきやすいし、視点や立場の切り替えもわりと身軽にでき、相手のお話の勢いをさえぎらずに、テンポよく質問できたりする、ような気がする。

長々しく書いたけれど、まだ「取材時の体」の話だけで、「書くときの体」の話に全然なっていないですね。とはいえ、すでに大幅に締め切りをすぎているので(ぐわーーー!!! どの口が誠実とかいうのか!!!)いったんここで切らせていただく。

次回は「体にいい書き方」、乞うご期待! 

と、気負った時点ですでに少々腰が痛くなっている……はぁ。

「体にいいライター業」への道のりは、まだまだ遠い。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?