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土神に哲学、きつねにブンガクを押し売られたい

宮沢賢治ファン暑苦しい投稿第2弾。

三角関係の恋愛ばなしで殺しもありの、大人向け(?)童話が「土神ときつね」です。

賢治の原稿には
「土神」は退職教授、
「きつね」は貧なる詩人
「樺の木」は村娘、
「シナリオ風の物語」だとメモ書きがあるそうです。

このきつねが、知ったかぶりおしゃれ男子で、かわいんですよ。星の色や星雲の話など、樺の木に向かってひとしきり天文学知識を披露したあと、望遠鏡をドイツのツァイスに注文してあるから届いたら見せてあげる、とか言ってしまって、勝手に反省します。「ああ僕はたった一人のお友達にまたつい嘘を言ってしまった、ああ僕はほんとうにだめなやつだ」。で、ハイネの詩集とかを樺の木に貸してあげて「翻訳ですけれど仲々よくできてるんです」なんて上から目線のコメントを残して去っていきます。

土神のほうは、ぼろぼろの着物を着て怒りっぽく、すぐ嫉妬に燃え上がります。神様なので、人を沼地に引きずり込んだりする強烈な力をもっています。その怒りの描写がなんだかカッコいいのです。「土神は葉をきしきし噛みながら高く腕を組んでそこらをあるきまはりました。その影はまっ黒に草に落ち草も恐れてふるえたのです」。

「いかりのにがさまた青さ/四月の気層のひかりの底を/唾(つばき)し はぎしりゆききする/おれはひとりの修羅なのだ」というロックなフレーズで有名な「春と修羅」の詩に雰囲気が似ています。

おしゃれで上品で、女子の喜びそうな話題も豊富だけれど嘘をやめられないきつねと、深い洞察力と優しさももちながら怒りを抑えられない土神、私にはどちらも魅力的に思えます。樺の木は木だけになんにもしません。『めぞん一刻』で、はじめのうち管理人さんが誰を好きだかわからないのと同じ感じなんだろうと思います(「めぞん一刻」が「坊ちゃん」とか「三四郎」に似てる説、というのがあるそうです。実は高橋留美子も夏目漱石もあんまり詳しくないから完全に友人の受け売り)。

ここまで書いてきて気づいたのは、自分が樺の木になって土神ときつねの両方から思われたいのかもしれない! という、壁ドンに憧れるオバサンみたいな恥ずかしい事実でした。

ただ、何かこうゆらめく恋情を感じる、ある種官能的な物語だと思います。
その意味では、同じ文庫に載ってる「ガドルフの百合」にも似たものを感じるけど、こっちはさらにわけがわからんですよ。

長くなってスミマセン。

『宮沢賢治全集6 ちくま文庫』


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