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「〜することができる」の多用は、三流。

おお、ちょうどディスプレイの時計を見たら22:22、2月22日であった。
いい感じ。

昨今、動画やネット記事で「〜することができる」という表現がとにかく多すぎて、お腹いっぱい。
同じように思っている方、いませんか?

サムネについ惹かれて開いた動画で、この表現が連発されると、最後まで見ずに終了。

正直、執筆業に携わっている私から見ると、(あまり偉そうなことは言えませんが)「〜することができる」という表現の多用は、本当に執筆素人丸出し、って感じが否めず、読んでいて(聞いていて)、とても疲れます。

このストレスは、普段、上質な文章に触れている方なら絶対に共感していただけるはず。
たとえば、賞を取るような作家さんの作品で、この表現はほとんど目にしません。(または、正しく使われている。ラノベは知らんけど)

こちら、noteでも、たまにウェブライターを生業としている方の記事を読みますが、くだんの表現が頻出しているのに驚かされます。
もし、仕事でこれがOKなら、編集さんがチェックしていないか、編集さんもその程度なら、どうなんだろう。

先日も、学習系動画で、賢そうな若い男性が「毎日勉強することができている人の時間の使い方は…」って声高に語った時点で、もうこの人から教わるものはないなと思い、速攻、2ストリートの新しいショートにスイッチ。

しかし、この表現が好んで使われる深層心理ってなんだろう。と考えた時に
まず思いつくのが、

「このケーキは、一晩冷蔵庫で冷やした方が美味しく食べられます」
「このケーキは、一晩冷蔵庫で冷やした方が美味しく食べることができます」

上の文は結構直接的で、自分の意見を主張しているように感じる反面、下の文は自分はさておき、より「一般的」な意見にもとれます。
なので、「冷蔵庫で一晩おいても美味しくなかったぞ」というコメントは回避できそうな気もします。
まあ、何をしても、何を言ってもアンチは沸くので、防御策の一つとしてこの表現を使わざるを得ないのかもしれません。

とはいえ、自分が書く文章や表現は自分を表すもの。
何かを人に伝えたいなら、その相手のことを考えてもっと作品に真剣に向き合い、無駄を省き、洗練された読みやすいものを作るのは、創作者として当然のことで、それがコアなファンを増やせるかどうかの分かれ目、といっても過言ではないでしょう。

これにて、今宵はここまでにいたしとうございます。

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