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はじめての古文書学習(4) 稗史も歴史? デマが動かす感情と歴史 吉成秀夫


不正確な情報とデマの書

 古文書解読会にはじめて参加した日、私は一冊の冊子を買った。
 『古文書解読選第六集 蝦夷錦』。発行は札幌歴史懇話会、定価1,000円(税込)の100頁ほどの冊子である。
 発行日は2021年12月13日。奇しくも私がはじめて古文書の世界に参入したちょうどその日が発行日である。このような偶然から本書は私にとって個人的に特別な感情を呼び起こす。
 影印付きの翻刻本だ。見開きの右ページに古文書の影印があり、左ページにその釈文(解読文)が印刷されている。だから、まずは自分で右ページのくずし字を読んでみて、すぐに左ページで答え合わせをすることができる。初学者にとってかなり使い勝手が良い。
 こういった翻刻本は一般の書店には決して並ばないが、古文書解読に取り組む同好の士の間で交換されるなどして、少部数ながら地域の図書館や古書店、市民の間に流通している。
 いま私が手にしているのは札幌歴史懇話会が発行する翻刻本シリーズの第六集である。これまで5冊が発行されているので、そのリストを記しておこう。
 
〇1集『文化丙寅北辺騒動都下風聞』2008年8月10日
〇2集『奥の松かぜ』2011年6月13日
〇3集『東蝦夷地臼山焼一件御用状写』2013年2月
〇4集『蝦夷日記 全(上)』2014年9月
〇5集『蝦夷日記 全(下)』2016年9月
 
 これに『蝦夷錦』を加えた6冊で、札幌歴史懇話会の「古文書解読選」シリーズは完結する。
 
 札幌歴史懇話会は、2006年11月、森勇二さんを中心に、最初はたった7名の会員で発足した。毎月解読会の例会を開き、古文書解読と歴史の学習を続けた。2021年8月時点で会員は109名にもなっていた。私はその年の12月に入会したので、110人目の会員であったかも知れない。いまとなっては確かめようもないが。
 
 『蝦夷錦』とは、いかなる古文書か。原本は北海道大学附属図書館に収蔵されている。同館の北方資料の目録である『日本北辺関係旧記目録(北海道・樺太・千島・ロシア)』(北海道大学図書刊行会、1991)の322ページ、索引番号2941に『蝦夷錦』の項目があり、そこには以下のように記されている。
 

 蝦夷錦 文化四 写本 二〇丁 二四cm
〔註〕文化丁卯事件の際の公私文書を収録。不正確な情報とデマの流行に当時の狼狽振りがよくあらわれている。

 この註が示す通り、この文書は、文化三年(1806年)から四年(1807年)にかけてロシアの植民地会社である露米商会が南樺太と南千島を襲撃した文化露寇事件のうちの、丁卯(文化四年=1807年)の事件に関する文書の写本である。しかしながら、私などにとってより興味深いのは「不正確な情報とデマの流行に当時の狼狽振りがよくあらわれている。」と記されている部分である。これについては後述する。
 
 さて、蝦夷錦というと、松前藩が山丹交易でアイヌを介して暗に清から輸入していた、きらびやかな刺繡が施された絹製の官服をさす言葉であるが、この文書の本文中に蝦夷錦についての記述は一切ない。この文書の内容は、ロシアの船が北方領土の択捉の会所(運上屋)を襲撃し、その後北上して樺太に上陸、番屋や蔵を焼き払い、利尻では輸送船と官船を襲ってのち、オホーツクを通って帰っていった事件をめぐって幕府や役人などのあいだで交わされた文書、手紙、飛脚の演舌のなかみが記されたものである。なぜタイトルが「蝦夷錦」であるのかは不明だが、このように内容とタイトルがまるで関係がない古文書は案外多いらしい。

北方からの危機

 文化露寇事件、文化丁卯事件、またはフヴォストフ事件とも呼ばれるこの襲撃事件は、歴史の偶発的な分水嶺を感じさせる事件である。ざっと復習してみよう。
 産業革命のイギリス、独立したアメリカ、強国オランダなどがつぎつぎとアジア・太平洋へと進出するなか、1799年、ロシアはこれに後れを取るまいと国策会社である露米商会を設立した。露米商会は極東進出や探検を行い、北太平洋に覇権をひろげ、未開の土地をロシア領として拡大し、軍事施設をもうけ、ロシア人を植民し、原住民と交易をおしすすめるというミッションを担った。英・仏・蘭による東インド会社に負けず劣らずのパフォーマンスを展開する目論見である。千島列島のウルップ島(得撫島)にロシア人を植民し、そこを拠点として日本をあいてに通商関係を築き上げる計画であった。極東および北太平洋、アラスカなどへ進出するためには日本から米塩などの物資を入手する必要があった。
 1803年、ロシアのアレクサンドル一世は、勅令によってレザノフを露米商会の代表とし、第一回世界一周探検隊長、および対日使節団長に任命した。翌1804年(文化元年)9月、レザノフは長崎に来航。先にラクスマン使節団に与えられていた信牌を持って通商交渉にのぞむも、幕府側はこれを拒絶。レザノフらは苛立ち落胆して長崎を去る。このことへの不満から、1806年(文化3年)9月、死期がせまっていたレザノフの指令で、露米商会勤務のフヴォストフ中尉とダヴィドフ少尉がとつじょとして南樺太の東海岸アニワ湾クシュンコタンの運上屋を襲撃した。四人の番人を捕虜として連行、倉庫の物品を略奪し、焼き払った。このときフヴォストフらは日本人の船をすべて焼き払ったため、翌年4月6日までこの知らせは福山(松前)に届かなかった。知らせがようやく届いた1807年(文化4年)4月、フヴォストフらは択捉、南樺太のオフイトマリおよびルウタカで運上屋や番屋を襲撃し、捕虜を連行、米や塩などを略奪し、倉庫に火を放った。宗谷海峡リシリ島では商船や官船を襲撃、略奪した。幕府が事件を知って蝦夷地に兵を送り、見回りを開始したのは、すでにフヴォストフらがロシアへ帰った二カ月もあとのことだった。
 はなはだ駆け足だが、以上が事件の、一般に知られている歴史的経緯である。この事件がきっかけで国内では北方の危機感が一段と高まり、幕末への歴史が加速してゆく。
 
  古文書の面白いところの一つは、写本ごとに内容の異同があるため、充分な史料批判をしなければ正しい歴史的事実が抽出できないところにある。つまり、私たちが歴史だと思っているものは、無数の「不正確な情報とデマ」を切り捨てたうえに編まれているのである。逆に言えば、この無数の噂、デマ、思惑などは、当時の人々の感情を揺るがして、あたかも本当に実在するかのようにふるまい、それが文字になって古文書に定着しているのだ。
 「不正確な情報とデマ」がそのまま書き残された古文書の一つがこの『蝦夷錦』である。

恐怖が語る稗史

 まず、フックとして、文化丁卯事件が起きたちょうど同じころの5月17日、「怪しき舟一艘」が太平洋沿岸に現れる。はじめこの船が現在の福島県小名浜沖合に姿を見せた時には、郡中が騒ぎ立てたので取り鎮めた。「このときの異国船は大船で、小舟を4,50ばかりも積み置いて、働きに出るときは小名浜も見えなくなるほどだというが、これは確かなこととは思えない」といったことが記されている。さすがにオーバーな表現で、その後「津軽、南部沖合へも怪敷舟相見へ、同十九日箱館付近之沖へも乗寄候~」。18日福山(松前)沖、19日箱館沖を過ぎ、恵山方面に走り去っている。このあやしい異国船の正体はじつは露米商会の雇船で、アラスカ・広東間の毛皮貿易に従事し、津軽海峡を通ってベテロパブロフスクに向かった米国船「イクリプス号」の船影であって、じっさいには露寇事件とは関係がない船であることが歴史的に検証されている。しかしながら、前年樺太が襲われたことを受けて、この「怪しき船」にたいして当時の人々は必要以上に恐怖し、誇大妄想的な疑心暗鬼の目をむけていたようすがわかる。
このようにして、実際より大きな船であったり人数が盛られていたり、実際には起こっていない出来事が記されていたりする。露寇事件の恐怖によって、何が事実かわからないまま、史実とデマのあいだで幻想的な噂が独り歩きしているのだ。
 なかでも、私が混乱ここに極まれりと思うのは、ロシアの襲撃を伝える飛脚の演舌である。できるだけ文意が通るように以下に意訳を試みよう。

4月20日に出発した飛脚は、13日以内の早到登りで着信するよう申し付けられたので、急いで出発して向かっていたのだが、道中は打ち続く雨で、川が氾濫して渡ることができない等で日数がかかり、二人の飛脚のうちようやく一人が到着した。この飛脚の者が口頭での演舌で伝えることには、五月中ごろロシアより大軍艦が数十艘、蝦夷地松前の北の方へ打ってかかり、津軽と南部の往来を断ち切った。津軽と南部の諸大名は海辺へ出張したが、人数が少ないため、居城地へ早舟でもって加勢をたのんだ。この急ぎの使者は、5月24日に秋田に到着した。殿は鷹狩で留守中だったが、城に帰るとすぐに人員を割り当てるよう指示し、翌25日から晦日までにおいおい1200人余りを派遣するということを、いまだ江戸幕府からの指令はないのだが、津軽公と箱館奉行からの依頼なので、このとおりにするのだ。秋田藩(久保田藩)佐竹家の居城地より5月の晦日に出発し、その後のことはまだわからない。
 
一つ、昨日、江戸幕府から6月6日に出した書状にて書いたのは、江戸幕府へ、津軽、南部よりつぎつぎと急使がやってくる大騒動で、はじめは蝦夷地の箱館奉行から報告があったが、もはや連絡が途絶えてしまったので、松前と箱館のことは一向にわからない。最初ロシア船が松前を襲撃し、松前地方の問屋や商家を残らず焼き払い、米はもちろんこまごまとした物は船へ取っていき、松前町内の男女は逃げ去ったか、あるいは死亡したか、行方がわからない。このため箱館奉行より即座に南部、津軽ご両家へ援軍をだすよう指示をしたので、南部、津軽両公より軍船を差し出したところ、南部領から函館の地方へ移動中、十八里の真ん中でロシアからの兵船が断ち切った。この兵船の大きさは見渡して4,50間ほどある。17、8艘もあって、この船から橋船を数艘おろし、これに18人ずつ乗りこんで働いている。飛び道具、大砲を自由に放ち、三里ばかりは黒煙に覆いつくされた。人影も見えかねるほどで、日本軍の手配や配置をすることができず、南部から加勢にきた軍船は大砲で打ち崩れ、人馬はおびただしく死亡して、これによってその後は往来ができなくなったので、蝦夷地の様子はわからない。おいおいこのことは江戸幕府へ報告すること。

『蝦夷錦』p.40~48

 この飛脚が語るところによれば、なんとロシアから大兵団がやってきて、蝦夷地と本州を分断し、松前を焼き払って略奪、人々がどうなったのかもわからないというのである。
 もちろん、これは史実ではない。史実ではないが、この噂話からは人々の恐怖や危機感がみせる幻影の風景がありありと伝わってくる。何が本当で何が嘘かわからない当時の人たちにとって、この噂話は肌身にせまって感情をじかに揺さぶる「実在」であったろう。真実(トゥルース)でない物語は、正史がつくられる史料批判の過程において荒唐無稽な錯誤として切り捨てられてしまう。しかしこの一見無意味な噂、デマの物語がじつは事実以上のリアリティでもって現実を動かす隠れた力を演じていたことが読み取れる。
 レザノフ、フヴォストフら露米商会の植民地拡大への欲望が暴走した文化露寇事件が、鎖国体制のなかで天下泰平にまどろんでいた江戸幕府に対して恐怖の波紋を投げかけた。波紋はその後の幕末期にいたるまで列島と蝦夷地を揺さぶりつづけ、ついには開国派と攘夷派の天下をわける大波になってゆく。その裏側では、恐怖の感情が生み出した幻想的な稗史——噂、デマの物語が、民衆の歴史を大きく動かす関数になっていたのである。

【執筆者プロフィール】
吉成秀夫(よしなり・ひでお)
1977年、北海道生まれ。札幌大学にて山口昌男に師事。2007年に書肆吉成を開業、店主。『アフンルパル通信』を14号まで刊行。2020年から2021年まで吉増剛造とマリリアの映像詩「gozo’s DOMUS」を編集・配信。2022年よりアイヌ語地名研究会古文書部会にて北海道史と古文書解読を学習中。
主な執筆は、「山口昌男先生のギフト」『ユリイカ 2013年6月号』青土社、「始原の声」『現代詩手帖 2024年4月号』思潮社、共著に「DOMUSの時間」吉増剛造著『DOMUS X』コトニ社など。

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