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  罪とは雪原に滴る鮮血のように醜く艶やかなものである。

 何かのきっかけで出会い伴侶となったナナセはよくできた女であった。
 家の事においては抜かりなく気が利き、殊台所においての芸の細やかさは思わず感嘆の溜息を打つ程であった。それを褒めると目を伏しながら「嬉しいです」と控え目に喜び、いじらしさが胸に染み入った。

 ナナセと過ごした時間はきっとで世でいうところの幸福というものであったのだろう。俺自身、過ぎた果報であると分かってはいた。これ以上を望むのは酷だと、欲をかくべきではないと、心中に刻み言い聞かせ、つつがない日常を噛みしめるようにしていた。
 だが、それでもやはり、自身に住う獣の性が時折牙を見せ唸るのだ。私は彼女に対して牙を突き立てたいと、また受け入れてほしいと願ってしまった。

 彼女に対してその欲望を抱き始めたのはいつ頃だったか。正確な時は覚えていないが、一緒に暮らすようになってからのような気がする。私は家に帰る度に花のない花瓶を見ては落胆し、必要以上に悲観に肩を落とし、不合理な理不尽遭ったのかの如く心胆を震わせていたのだった。

「ごめんなさい」

 そんな俺を見てナナセは心底申し訳なさそうに頭を下げるのだが、その瞬間が実に哀れで情けなく、また、やり場のない怒りと殺意に自我が亡失しそうになるのだった。それを気取られぬよう「いいんだ」と吐かねばならないのがどれほどの屈辱か彼女は知らなかっただろう。欲の抜け落ちた、澄清そのものといったようなその身に、努めて緩める頰から感じる裂かれるような痛みをどうして知る事ができようか。彼女にとってそれは悪であり唾棄するような不得であり否定すべき不得であり、また不浄であった。肌を重ねるという事は、彼女にとって穢れ以外の何者でもなかったのだ。
 故に、私は偽り秘める以外に道はなかった。私が抱く、劣情以上の穢れを彼女に知られるわけにはいかなかった。
 本性の秘匿は自己の否定を生むようで大いに苦しんだ。いっそ……と、考える日も稀に、いや、頻繁にあった。白状すると私はナナセに対して怒りを覚えていたのだ。至極身勝手であると同時に、我慢をさせている方が悪いと、さも自身に正当性があるような、滅裂な怒りをである。
 

 

 それでもナナセと共にいたのは私が彼女を好いていたのか、それとも穴の空いた胸を覆い隠したかったからなのか。今更答えを求めるつもりはないし、求めようにも時が経ち過ぎてしまっている。しかし、いずれにも確かなのは、私にはあの女の影がちらつき、逃避の道を探していたのだという事である。
 今、その影が濃厚となり、色付きや形。果ては匂いまで再現され私を悩ますようになったのは、この身に宿る罪に科された罰に違いなく、また、私自身が犯した悪に対する刑でもあるように思える。許されざる冒涜は聖痕のように残り、煉獄のように、心を焦がす。

 その女の名はトワといった。
 永遠と書いてトワ。その名の通り、彼女は生ある限り私の中から消える事はない。トワの声は私の耳にかかり、「貴方を愛しているのよ」と囁く。彼女が最後に残した言葉を。

 あるいは彼女を、いや、彼女達を忘れる事ができれば私は救われるかもしれない。しかしそれが無理な事は私自身が一番よく理解している。この期に及んで幸福など得られるわけもなく、咎が潰えるわけもない。ただひたすらに、苦悩と辛苦に悩む他ないのだ。

 ナナセにもトワにも大変申し訳なく、また哀れに思う。私とさえ出会わなければ、もっと真っ当に生きられていただろうと考えぬ日はない。記憶を辿れば辿るほどにその想いは強くなる。だが、同時に私の背信をも色濃くしていく。
 罪の意識と愉悦が私の中で混ざり、私が塗りつぶされていくような錯覚が生まれる。私は果たしいつまで私としていられるのかは、定かではない。それでも、私は、彼女達の事を思い出さずにはいられないのだ。死んでしまった、ナナセとトワの事を。

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