色のない花

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男が手酌したビールの泡はすぐに消えた。
 卓に並べられた肉じゃがとお新香。ずいぶんと貧相な晩酌であるが、男はこれに満足していた。彼は毎週決まった時間にやってきては決まったメニューを頼むのである。それで不服があるとしたら精神が破綻している。

「倉前さん。ビールのおかわりは?」

 中年の女将の勧めに「いや」と言って断り倉前と呼ばれた男は豚汁と握り飯を頼んだ。これもいつもと変わらない光景である。彼はこの後会計を済ませて家に帰り、シャワーを浴びて寝るのだ。もうずっと長くそんな毎日を送っている。胸の焦がれるロマンスや血肉湧き踊る競争などとはまるで縁のない、有り体に言えばつまらない生活であった。

 倉前は田舎町の工場に勤務している。生きるために働き、生きるために飯を食い眠るのだが生の意識は希薄で、人生に対して夢も希望も抱いてはいない。しかし別段死ぬ理由もないと、灯された命の火を燻らせているのであった。楽しみといったら、この定食屋での晩酌と散歩くらいのものである。
 より豊かに、より楽しく。
 そういった普通の人間が考えそうな欲が、彼にはなかった。

「ごちそうさん」

 卓に代金を置いて倉前は店を出た。酔いも胃もほどほどに帰路に着き、週の終わりを迎えたのであった。刺激のない日々であるが、彼はそれで十分であった。倉前は死ぬまで変わらぬ日常を送りたいと願っていた。変わらないまま生き、変わらないまま死ぬ事を望んでいるのだ。今の生き方こそ倉前にとっては理想であり、何ものにも代え難い宝なのである。

 しかし現実というのは過酷なもので、いかなる人間も、本人の望む望まぬに関わらず試練が訪れるのである。
 倉前の工場は大手企業の三次下受けで、そう難しく複雑な製品を取り扱っているわけではない。簡単な労働で利益を出すには、時間を消費した大量生産が一番の近道であり王道である。
 最近、倉前の働く工場は仕事の回りが早く、社長も色を出してきた。つまりは、工場の稼働時間割を増加させると言い出したのである。日中のみの勤務だったものを実験的に夜間まで伸ばし、一部社員は夜間勤務を強いられることになったのだ。

 その一部社員の中に倉前は入っていた。暫定的な処置ではあるが、しばらく彼は日の傾きと共に出社し、日が上る前に退勤しなければならなくなったのである。

「まったく面倒なことになった」

 休憩室で倉前の同僚である東塚が紫煙を燻らせながらそう呟いた。 「しかたないさ」と、隣に座る倉前は答えた。それ以降二人は無言であった。何を言っても無駄であったし、慰め合いも馬鹿らしいと思っていたからだ。

 そんなわけで倉前はしばらく定食屋に行けずにいた。業務が終わる頃には当然店は閉まっていたし、慣れない夜間勤務に身体が疲れ果ててしまって、休日はずっと眠りっぱなしだったからである。
 倉前はこの間に何度か退職を考えたが、結局能動的に変化を起こす気にはなれず、不平と不満を抱えながらも与えられた仕事に従事したのであった。

 そんな折である。倉前が闇夜を照らす安い白色灯の光で単純作業をしていると、大きな声と鈍い音が響いた。倉前は何が起きたのか見に行ってみると、そこには東塚が左手首を抑えながら倒れ込んでいた。溢れ出る血液が血だまりを作り、東塚は苦しそうに唸っている。どうやら金属を加工する際に、誤って機械に手を巻き込んでしまったらしい。次第に人々が集まり人間の波が東塚を飲み込んでいた。

「労災かな……」

 誰かがそんな事を呟いたが、誰しもがその言葉を聞かなかったことにした。

 結果として東塚は左手を失った。そのおかげというとあまりにも不謹慎であるが、夜勤はなくなり倉前が望む毎日が戻ってきたのであった。「視界が悪い中で危険な作業をやらせた私が馬鹿だった」とは社長の弁であるが、深く刻まれた皺には「下手を打ちやがって」という呪詛がありありと刻まれていた。

 病院のベッドで寝ていた東塚は「感謝してくれ」と軽薄な笑みを浮かべ倉前に言った。倉前は笑っていいのかどうか分からないような表情をして、見舞いに持って来たフルーツを置いて帰った。その後ろから東塚が「片手じゃ皮が剥けないんだから」と黒いジョークを飛ばしていたが、倉前は無視を決め込んだ。

 そんな事があって、倉橋は久方ぶりに例の定食屋にやって来たのである。およそ三ヶ月ぶりであった。暖簾を潜り、いつもの席へ向かおうと一歩踏み出した瞬間。彼は異変に気付きその足を止めた。いつもの静寂がどこかへ消え去り、活気と熱気が店内を支配していたのである。つまるところ、客が多いのだ。

「倉前さん。ずいぶんですね」

 女将が気付き、倉前をいつもの席へと案内した。「ちょいとすみませんね」とひしめく人間に断りを入れねばならぬ程に密度が上がっている。倉前は訝しげな顔を作り女将の後へ続いていった。その途中、見知らぬ女が配膳をしているのを彼は見逃さなかった。

 頭の上の方で大きく結ばれている黒髪は艶やかな濡れ羽の如く妖艶で、そこから覗かせる肌は雪の様に白い。涼やかな目と筋の通った鼻。薄い唇は控えめに赤く、色香を漂わしている。
 女は紛れもなく麗人であった。そしてこの異常な繁盛の理由もまた明白となった。店内に蠢く客の大半は男連中である。倉前はそれを悟り、ため息まじりに「ビール」と女将に言葉を投げたのであった。

「綺麗でございましょう? 彼女、花梨ちゃんっていうんですけれど、まったく閑古鳥を追い払ってくれて助かっているんですよ。しかも気立てが良くて働き者っていうんですから、こちらとしてももうありがたくてありがたくて……」

「それと肉じゃがと新香だ。手早く頼む」

 倉前はまるで興味がなさそうにアテを頼み女将の話を終わらせた。「はい」と答えた女将はまるでお喋りが足りないといった様子で奥に引っ込んで行き、当てつけの様に「倉前さんの、いつものでお願いします」とよく通る声を響かせたのであった。

 程なくして倉橋の座る客席にビールが運ばれた。持って来たのは、例の女である。

「ビールです。どうぞ」

「……」

「お料理もすぐにお持ちいたします。その間にこちらのお通しをお召し上がりください」

「……」

「それでは……」

 親切丁寧に接客をした女を倉橋は「待て」と引き止めた。

「グラスがない」

「……失礼致しました。すぐにお持ちします」

 そう言って駆けていく女を目で見送りながら倉前は辟易したといった具合に大きく息を吸い込んで吐き出した。「くだらない」という、愚痴とも嫌味とも取れる言葉を落としながら。

 その後は順序良く料理が運ばれ、最後はいつもの様におにぎりと豚汁を平らげて倉前は店を出た。彼は道中、夜の風に吹かれながら空を見上げて独り言ちた。「どうしてこうもおかしな事が続くかね」と。

 帰路につく倉前の後ろ姿は寂しげで、どこか哀愁が漂っていた。

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