聖水少女13

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カクヨム


 そんな彼女に対して天花は気にする様子もなく昼食を食べ始め、香織はそれをちらと見た。
 昭和然としたノスタルジー漂う銀色のアルマイト製弁当箱の中に敷き詰められた白米は艶があり瑞々しい。見るからにいい米を使っていて粒が大きく、気品もある。仕切り越しにあるおかず類はバランスがいい。黒々としたひじきに自家製と思われる渋い色をした漬物。そして可愛らしく隅に収まるおから。中でも一際目を惹くのがやはり主菜である塩鮭だろう。身が厚く、弁当箱と同じく銀色に輝く皮が適度に焦されている。これは食指が動くというもの。やはり米と魚と菜物こそ日本人の心に響く国民食。目の当たりにする香織も思わずはしたなく喉を鳴らす。

「米がいいんだよ。米が」

 自分は隠す癖に人の物は見るのかと文句を言われても仕方のない不埒を働いた香織であったが天花は気にも留めぬようにそう言った。

「あ、すみません。卑しく覗いてしまって」

 顔を赤らめ汗を流す香織は尾を丸めた犬のような声で謝意を述べる。

「いや、気にしないでくれ。そんな風に言われると逆に申し訳ない」

「すみません」

 困ったという顔をする天花と、同じく困ったという顔をする香織。二人は同じような顔をしながら、同じように照れ、笑った。

「いやね、親戚が農家で、米を安く卸してくれるんだよ」

「あぁ。通りで。しっかりと白くて、張りがありますもの」

「そうだろう。この鮭も市場にいるおじさんがわざわざ届けてくれたんだよ。朝から七輪出して焼いてね。煙の臭いが取れなくってまいったよ」

「あら。ご自分でお料理なさるんですね」

「そうさ。自分の食べるものくらい、自分で作らないと。漬物だけは、お袋の手製なんだが」

「男の人なのに珍しい」

「変かい?」

「いえ。最近じゃ女だって料理をしない人も珍しくないんですもの。ちっとも変じゃないです」

「そう言っていただけると幾らか恥も降りるよ。実はね、今日は特に凝って作ったんだ。昨日君の料理を食べて、対抗意識が芽生えしまって」

「まぁ」

 香織は大きな笑い声を上げた後、「あ」と小さく漏らして手を口に当てた。乙女らしからぬ行いに己を恥じたのだ。

 はしたなかったかしら。椿さんはどう思っているかしら。


 逡巡に揺れながら対面を覗と、薄く開く眼には頰を上げ白米を頬張る天花が映った。行儀良く、それでいて腕白に橋を運ぶ様がまったく堂々としていて、香織はこそこそと縮まって食べるのが情けなく思えた。

 いいじゃない。横着だって。

 香織は隠していた弁当箱を曝け出し、半分に割った茹で卵を思い切り頬張った。

「おや。いいのかい」

「いいんです。なんだか、馬鹿らしくなっちゃって」

「そうかい」

 朗らかに頰を緩め香織は料理を拾っていく。心なしか先より美味しそうに食べる姿は小動物のようで愛嬌がある。

 あれ。この香り。

 そうしてふと気がつく。天花から発する芳香に。
 それは何度も鼻腔を擽った、彼女がよく知るフレグランス。自らが排出し、自らが汲み入れる黄金の聖水。香織の腎臓より生成され、膀胱に蓄積し、尿道より放たれる液体。尿の香りであった。

「あ、椿さん、私のお……香水、振っていただけたんですね」

「うん。よく気づいたね」

「それは、まぁ」

「煙の臭いがとれないと言っただろう? 湯を浴びてもしっかり焦げ臭いものだから、一つ、つけてみたんだ。そしたらもう覿面てきめんでね。定食屋から洋菓子屋になったみたいだったよ。やはりいい香りだ」

「それは、よかったです」

 香織は喜びと気恥ずかしさに目元が弛んだ。
 好いた男が自分の尿飛沫にょうしぶきを浴び、それを嬉々として「いい香りだ」と述べるのだ。斯様に珍妙な体験における適切な対応など多くの人間が分かりかねるだろう。それは人類の中の多数に甘んじる香織にとってもそれは例外ではなく、ただ笑うばかりで場をやり過ごすしかなかった。

「しかしこの香水、どういう配合なんだろうか。花のようでいて、果実のようでいて、蜂蜜のようでいて、潮のようでいて、森のようでいて、甘いようで、酸いようで、辛いよいで、何とも不可思議で、面白い」

「そうでしょうか」

「そうだとも。こんな香りは今まで俺は知らない。複雑なのにスッと入り込んできて、重厚な中に軽やかさがある。ほんのりと雨上がりの土や草木を連想させながら、太陽に照らされた芝生も見え隠れしていて、いったい何がどうなったらこんな風に香るのか皆目分からない。これは君、素晴らしいよ」

「ありがとうございます」

 目の前で自身の尿を品評され称賛される経験を果たしてどれだけの人間が有するであろうか。少なくとも真っ当に陽の当たる生活を営む者であればまず有り得ない事態であろう。

 これは喜んでいいのかしら。

 香織の常軌は既に逸しており素っ頓狂の果てに意識があった。そうでなければ「ありがとうございます」などという返しはできなるはずなく、あまつさえ賛美を甘受するなど不可能である。

 言っちゃおうかしら「それは私のおしっこなのよ」って。

 取り返しのつかない狂気への興味が先走る。やってはいけない。けれどやりたい。そんな願望が血を滾らす。カリギュラの月は欲望が突飛であればあるほど輝くのだ。今、香織の目は自らの魂を焼き尽くす炎に彩られ紅蓮の花を咲かさんとして……

「それ、祖母からいただくんです。なんでも舶来ものだそうで」

 いなかった。
 それもそうだ。残念ながら、彼女はそこまで世渡りの道を外すつもりはない。

「なるほどなぁ」

 分かったような、分からなかったような顔をして天花は呟いた。それを見た香織は、やっぱり、白状してみてもいいかしら。などと、悪戯な心に笑うのだった。

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