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「メンやば本かじり」それでもあなたはその未来を選択するのか編

 みなさんは、子どものころに読んだ本の「答え」を大人になって出せものはあるだろうか。

「ある!」と心の中で答えたあなた、声に出してええんやで。すごいやん!

 もちろん私は──うん、キミのそれ、正解や。

 ないない、なんもあらへん。

 たとえば、子どものときもやもやが残った「答え」が出なかった本といえば、シートン動物記『オオカミ王ロボ』。

 幼い私は、ただロボがかわいそうという感想しかなかった。あの悲しい結末を回避するために、どうしていいのかわからなかった。

 大人になり、オオカミが悪の対象にされていた(市民の鬱憤ばらしとしてイメージ付けをされた)ことや、人間による駆除や密猟によりアメリカアカオオカミが絶滅の危機に瀕していること、日本もアメリカに倣いオオカミ駆除に力を入れニホンオオカミが絶滅した話などを知った。

 オオカミ駆除には懸賞金までかけられていた。

 人間が放ったストリキニーネ(毒餌)により、銀色の川のごとく連なって死んでいったオオカミたち。

 こうして、世界からオオカミは激減した。

 ニホンオオカミは絶滅。

 はたして、オオカミは排除すべき存在だった──のだろうか。

 イエローストーン国立公園では、オオカミが姿を消したあと、増殖したエルクが草を食べ尽くし、生態系に異変が起きていた。

 いずれは木となる小さな芽もエルクが食べ尽くしてしまい、ビーバーがダムをつくるための木が失われ、さらにビーバーのダムによって恩恵を受けていたカワウソも数を減らしていたという。

 だが、オオカミの再投入によりエルクが減少し、ビーバーを含めた多くの動物が個体数を増やした。

 一方で、オオカミが家畜である羊などを襲ったのは事実だ。

 最近見かけた某有名サイトには「せっかく駆除したオオカミが、また増えてきている」と書かれており、いまなおオオカミへの憎しみが消えたわけではないことを知った。ただ、この記事には人間を襲う話が書かれていたが、基本的にオオカミは警戒心が強く、人には近づかないとされている。人間が餌付けなどしていなければ。

 このように考えると、オオカミと人の共存は、人間がオオカミの暮らせる環境をつくり、人間の近くにできるだけ寄りつかせないようにする、ということだろうか。結局は保護すべき数を維持する、人間の管理下でしか生かしておけないのか。他に道はないのだろうか。

 答えは、まだわからない。

 『オオカミの王ロボ』以外に答えが出せなかった本は他にも山ほどある。

 残念、わからないことだらけでした、おしまい、しゃんしゃん!

 で終わるのは、自分の無能さを改めて痛感するだけなので、メンタルがえぐられるじゃないか。

 このままでは、終わらねえ、てか終わりたくないので話を聞いてもらってもいいですか?

 あっ、すみませんね、んじゃ続けさせてもらいまっせ。

 てなことで、私の中では答えが見つけられたと感動した一節を本の中に見つけたので、今回はそちらを紹介したい。

 と、答えを見つけた本の紹介の前に、子ども時代に読んだもやもや本の説明をざっくりざくざくとしていこう。

 小学校低学年のときに読んだ漫画の話だ。

 主人公の男性は、夢の中で未来をみる能力を持っていた。

 彼は、将来結婚する女性と子どもをもうける。しかし、彼女は浮気をし、さらに主人公は、彼女の浮気相手である男性に殺されてしまう。

 すごい悲惨な夢(てか未来)やな。

 主人公を始末し、交際相手の男性と結婚をした女性は、我が子を鬱陶しく思い、殺そうとする。たが、これは未遂に終わり、子どもは生き延びる。生き延びたあとも子どもの人生は苦難の連続だった。

 我が子の運命の結末までは見ることができず、苦難の渦中で夢は終わる。

 夢から覚めた男は、現実世界で自分を陥れる女と出会い、やはり結婚する。

 運命から逃げられなかったのではない。

 彼は自ら選び、運命へと突き進んだ。

 話の方向性は違うが、ちょとテッド・チャンの『あなたの人生の物語』(ハヤカワ文庫)を思い出す内容だ。

 それにしても、幼い私には主人公の選択は理解し難いものだった。

 なぜ自分を結果的に殺す女を、つまりまったく愛していない女と結婚をするのか。我が子に苦難の連続しか起きないことを知っていながら、なぜ。

 自分だったら他の人と結婚して、幸せな生活を送りたいと思った。そして、子どもには苦労のない環境を与えてあげたほうがいいだろう。

 なんてことはすっかり忘れ、年月は流れていった。

 だが、このもやもやを思い出すきっかけがあった。

 それはつい最近のこと。

 哲学者サミュエル・シェフラーによる『死と後世』の中にある一節を読んだときだ。

人々はもし自分の子どもが自分自身の死から三十日もたたないうちに死ぬと知っていたら、それでも子どもを待とうという気になるだろうか? そうもなりそうもない。

『死と後世』(ちくま文庫)サミュエル・シェフラー著 森村進訳

 出産には大きなリスクを伴う。女性の妊娠中の負荷や出産のリスク、産後の激しい体力消耗、それからもちろんそれらの期間を支える男性の苦労もあるだろう。

 そこまでしても、自分はこの世を去り、さらに我が子もたった三十日しかもたない命だと考えると、子どもはいらないと考えるのは当然ではないか。

 そうだ、まったくもって、このことは正しい──のだろうか。心の中で疑問という小骨が引っかかった。

 はたして、すべての人が子どもを望まないだろうか。

 そのとき、あの漫画を思い出し、それと同時にフロムの『愛するということ』の一節が浮かんだ。

愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない。

『愛するということ』(紀伊國屋書店)エーリッヒ・フロム著 鈴木晶訳

 思わず叫びそうになった。まるでプルーストのマドレーヌのように、わあっと記憶と感動が溢れ、激流となり私の中に流れこんできた。

 そうか、あの男性はあの子じゃなきゃ駄目だったんだ!

 自分を愛してくれる人と幸せな結婚をし、そうして生まれた子は、夢の子ではない。まったくの別人だ。

 もちろん、その子のことを愛せるだろう。

 だが、夢の子はこの世界にいないことになってしまう。

 愛する人がいない世界など、それは彼にとって必要な世界ではなかったのだ。夢の中で出会った我が子に、主人公は愛情を抱いたのだろう。

 とはいえ、これは親子の話。私には子どもがいないので、断言するのは難しい。

 そこでもう一つ、フロムの力を借りることにしよう。フロムは恋愛についてこう語っている。

愛は本質的には、意志にもとづいた行為であるべきだ。すなわち、自分の全人生を相手の人生に賭けようという決断の行為であるべきだ。(…)誰かを愛するというのは、たんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。

同上

 我が子でなくても相手の生命、つまり健康を気にかけるのは、愛が故のものだろう。成長は体だけでなく、精神的な部分なら大人になって出会った二人でもあることだ。

 そしてなにより、それがすべて自分のことでなく相手へ捧げる(与える)ものであるべきであり、もしそれに見返りを求めるなら、それは愛というかたちを保てなくなる。

 この件に関して、フロムはマルクスの言葉を引いている。

もし人を愛しても、その人の心に愛が生まれなかったとしたら、つまり自分の愛が愛を生まないようなものだったら、また、愛する者としての生の表出によっても、愛される人間になれなかったとしたら、その愛は無力であり不幸である。

同上

 私が愛されなかったとしても、それは私の責任であり、そしてその愛をもし与え続けようとしたらそれは「不幸」を相手に与えることになってしまう。

 自分の人生を賭ける相手、つまり自分の人生そのものなのだから、不幸であっていいはずはない。

 自分を消すとか、自分を押し殺すとか、そんなことを考えているうちは、それはきっと愛ではないのだろう。

 愛する人が幸せになってくれたら、そしてこの世界で生きていてくれたら、自分の人生は存在したといえる、そういうことなのではないか。

 なんて言ってみたが、

 2024年4月現在、私は独身であり、恋人もいない。

 私の愛は、受け取られることはなかったのだ。

 でも、

 もし、私が明日死んだとして──。

 もし人生のリセットボタンを与えられたとして──それでもその人を愛したことが自分の人生で豊かな時間だったと思えるし、また彼を愛する道を選ぶのだろう。


■書籍データ
『愛するということ』(紀伊國屋書店)エーリッヒ・フロム著 鈴木晶訳

 難易度★★★★☆ 愛とは愛されることではなく、愛することである。愛について語られた、愛を知るための教示本。

 愛というと、すぐに私は愛されたことがないとか、私の愛は無意味だとか、相手に押し付けることばかりであった。
「愛は何よりも与えることであり、もらうことではない」「生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であると知ることである」
など、愛についていかに浅はかな考え(知識、技術)しかなかったかをビシバシ教えてくれる、人生においての必読本。

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